日記。慈悲。教養。悩み。道楽。道徳。時間。信仰。

『名言の暦 大正から昭和へ編 上(7-12月 誕生日)』の内容のチェックを行っている。改めて読み進めるなかで、大きく取り上げた名言以外に、新たな「名言」に出会う。これらの言葉は、他人の言葉と自分の言葉が入り混じったものになっている。

最終チェックが終了したので、本の形にしておこう。

ーーーーーーーー

最後の最後まで、少しでも、1ミリか2ミリでもいいから、上り坂でいたいと思います。そして惨めに死ぬのではなく、生き生きと死にたい。

自己を探求する表現の世界では、作品をひとつひとつ完成させながら、自己に深く迫っていくことになるのだ。

母を失ったということは、僕にとって実に大きな損失である。本当に喜びを共にして呉れる人がいなくなって、之からの世渡りに楽しみはなくなってしまった。

高い志、克己心、忍耐心、勇気、親孝行、人の為に尽くすことなど普遍的な価値を、具体的な人間の姿で教えることはきわめて重要だ。

「声聞」(智恵)、「縁覚(感覚)」、そして「菩薩」(人のために)、そこから「仏」(一切の衆生を幸せに)にまで広がっていく。日常生活の中でこの過程をたどるのが修行なのだ。

男の敗北感や嫉妬心は、ときに女のそれよりも凄まじいのだ。

絶えず自分に疑問を抱き、稔りある問いを発し続けることが真の教養ということである。

小指の痛さは全身の痛さであることを感ずる同胞であってほしい。

花はなぜ美しいか。一筋の気持ちで咲いているからだ。

人間にとって大切なのは「自分中心の世界」、コスモスとしての世界です。

自然は角度を作らない。

ワンダラーマン。

大学教員をやっていたら、時間が奪われて自分の研究ができない。

非凡の人が非常の生活を行ってはじめて成るのが辞典というもの。

人生なんて考えつめるほど深刻じゃない。かといって、考えただけでわかるほど甘くもない。

世界記録よりも、ボストンの優勝よりも、何よりも女として、最も幸せなひととき。

微差、僅差の積み重ねが遂には絶対差となる。

人間は自分のことばかり考えているうちは悩みが尽きることはない。

私が後悔することは、しなかったことであり、できなかったことではない。

公共放送が権力に負け報道を曲げたら、その存在意義はなくなってしまう。

女性は三流の男性になるより、一流の女性になるべきだ。

一枚の紙、宇宙を呑む。

近隣に友達がいない国である日本は、孤立すると暴発する可能性がある。

仕事が道楽になった時、初めて、その人はその道で第一人者近くになれるのである。

信仰を持つと自分の行動の評価を他人に委ねなくなる。

国際的になるということは、その国の人としてみごとな人になることだ。

「慈」と「悲」とは「励まし」と「慰め」と言いかえることができる。

今を生きる人々の心を慰めるのが自身の役割だから、時代とともにあるから、消えることはない。

役得などはない、役損は確かにある。役職に就くということは権力を手に入れるという事ではない。責任が重くなるということなのだ。

日記は自己浄化の行為だ。

道徳は、人物論で教えるしかない。

社会科学は「世間学」と言い換えるべきだ。

情報は持っている人に集まってくる。

幸せになることよりも、幸せであり続けることの方が難しい。

時は流れない。それは積み重なるだけだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」9月1日。田崎広助「私が日本の火山-阿蘇桜島浅間山などに取り組んだのは、ベスビアスがもっていない重厚さに魅せられたからだ」

田崎 広助(たさき ひろすけ、1898年〈明治31年〉9月1日 - 1984年〈昭和59年〉1月28日)は、洋画家。

福岡県八女市生まれ。同郷の画家・坂本繁二郎、青木 繁の活躍に触発され、画家としての道を志す。母の実家は立花藩の漢学者で。助広と名乗っていた。それをひっくり返して雅号とした。

2005年に軽井沢の田崎美術館を訪問したことがある。東京の同世代の友人たちと「ワールド・トイ・ミュージアム」を見学する。バンダイが「ロンドン・トイ・アンドモデル・ミュージアム」の経営が立ちゆかなくなったときに、7000点を一括してひきとって、そのうち1500点を展示するミュージアムをつくった。そのバンダイの楽楽さん(文化事業推進室)と、友人でこのミュージアムの副館長の木原さんに案内してもらい、その素晴らしい世界を堪能する。せっかくなので、その帰りに、人物記念館を一人でまわってきた。全員、軽井沢に別荘を持っていた人など、軽井沢に縁のある人ばかりだった。室生犀星旧居(1889ー1962年)、内村鑑三記念室(1861−1930年)、堀辰雄文学記念館(1904−1953年)。そして原広司設計の田崎美術館(田崎廣助:1898−1984年)だ。

田崎は1965年から軽井沢三笠にアトリエを持ち、浅間、白樺湖を背景に蓼科、八ヶ岳妙高野尻湖など多数の作品を世に残している。戦前、戦後を通じ第二の故郷として愛した軽井沢に自己の作品を永久保存展示したいという田崎の遺志があり作られた美術館だ。また、明治、大正、昭和を生き抜いた廣助は生前おびただしいほどの画人や文化人たちとの交遊があった。日本の画壇の創世記からの歴史を知ることができる。

田崎は欧州滞在中。浅間山とそっくりな形をしている、イタリアのベスボビアス火山をみている。「後年、私が日本の火山-阿蘇桜島浅間山などに取り組んだのは、ベスビアスがもっていない重厚さに魅せられたからだ」と回顧している。

浅間山 や、 八ヶ岳蓼科山妙高山 、 富士山 、 阿蘇山 など、山岳画を中心に多くの作品を残した。洋画という手法で、阿蘇桜島など日本の山々の魅力を描く「山岳画家」と呼ばれ、簡潔なフォルムと明快な色彩の山岳風景画は、大自然雄大さや神秘がこめられた格調高さが特色である。1975年には、文化勲章を受章している。
その翌年には[八女市名誉市民]の称号を贈られる。2016年には、八女市田崎廣助美術館が開館している。

山岳画家から一歩進んで、「阿蘇の画家」と呼ばれるほど、郷里に近い阿蘇山をテーマに多くの作品を手掛けた。2011に黒川温泉から、飯田高原を経て、湯布院をドライブしたことがある。その途中、阿蘇の中岳などの噴煙を見た。阿蘇の中心にある山々はまるで涅槃像が寝そべっているように見えるというがその通りだった。自分が見ている山も外輪山だと聞いてそのスケールの大きさにびっくりした。大爆発の前は、推定で8000メートル級の山だったという。

阿蘇の他にも、桜島由布岳、富士山、浅間山など、日本各地の山と向き合い、優れた作品を残した画家である。日本の山々の魅力を、欧州との比較の中で知った田崎広助は、日本の火山を中心テーマに絵を描き続けた。こういうテーマの持ち方もあるのだ。そして「山岳画家」「阿蘇の画家」として生涯を送った。その作品群を改めて鑑賞したいと思う。