ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の第14弾は「公文公」の巻ーー「足に靴を合わせる教育。

ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の第14弾は「公文公」の巻。

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「悪いのはこどもではない」

  • 公文公(1914-1995年)は高知の土佐中学、高知高校を経て、大阪帝国大学理学部数学科の第1期生となった。卒業後、郷里高知の高校の数学の教師となる息子の毅に夕食前に自分でつくった数学の教材を小学2年生から解かせ、帰宅後採点し、翌日の問題をつ来るという作業を毎日実行する。6年生では高校の微分積分を終了してしまう。この教材を近所に分けたのが、公文式の始まりだ。55歳まで33年間の教師生活を送るのだが、1952年には禎子夫人の実家のある大阪の高校に移る。創業は1958年で、44歳の時である。公文式教育研究所となった。
  • 「足に靴を合わせる教育。生ものの本が読めるように。1人の人間にできることは、ほかの人間にもできうはずだ。自習する習慣悪いのは子どもではない。やってみとう。やってみなければわからない。ちょうどの学習。ちょうどの追求。もっと速く、もっと高く。こんなものだはいつもなく、もっといいものはいちもある。生徒から学ぶ公文式をよく知るということは、子どもをよく知ること。粗雑な教材か能力に応じた教材か?学力はスピードで計れる。「気づかせる」教材。女性的教材より男性的教材。
  • 大阪の公文公記念館では、日本人は135万人、アジア、米州を始め世界で460万人の子供たちが公文式で学んでいる地図は圧巻の迫力で迫ってくる。今では数学、国語、英語、そしてフランス語やドイツ語にも教材が開発されている。
  • 「十で神童、十五で天才、二十過ぎればただの人」とは人口に膾炙した言葉だが、それは教育の失費だと公文は言う。その原因は、教材の問題であり、指導法の間違いであり、指導者の責任である。子供自身の能力のせいにせずに、方法論に徹底的に着目したところが、公文式が教育界を席巻したポイントだろう。

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「名言との対話」9月2日。島安次郎「将来を嘱望して、現在の発展を怠ることなかれ」

島 安次郎(しま やすじろう、1870年9月2日明治3年8月7日) - 1946年)(昭和21年2月17日)は、日本の鉄道技術者。

和歌山市出身。東京帝大機械工学科卒。関西鉄道では高性能機関車の開発や旅客サービスの導入など活躍するが、1907年には国有化され、鉄道院に入省する。蒸気機関車の開発に腕をふるった。

当時の鉄道院総裁は後藤新平であった。後藤総裁は線路の広軌化への取り組みに熱心だった。鉄道の2本の線路の内側の距離は輸送力やスピードに大きな影響を与える。欧州では1435mmが標準で「広軌」と呼ばれていた。日本では新橋横浜間の最初の鉄道は1067mmの「狭軌」を採用した。安い方を選んだ大隈重信は後に不明を恥じている。

この二つの路線の対立には長い歴史がある。陸軍は兵員や軍需物資の輸送のために「広軌」を主張していた。満鉄総裁時代にロシアのさらに広い広軌をみていた後藤新平は鉄道院総裁となって、「広軌」を推進した。このとき、技術を担当したのが島安次郎や十河信二だった。「狭軌」を使って、地方に鉄道を引こうとしたのが立憲政友会原敬だった。地方政界の要求に沿う「建主改従」が、憲政会の「改主建従」を押し切った。狭軌派の総裁は技監であった島のハンコなしに強行している。

島は辞任し、満鉄で筆頭理事になり、汽車製造会社の社長に就任する。1939年には鉄道幹線調査会の特別委員長に就任し「弾丸列車計画」を推進するが、戦局の悪化で頓挫し、「車両の神様」島安次郎は失意の中で死去する。

京浜急行沿線に住んでいたとき、通勤列車が弾丸のような猛スピードで走ることに驚いたことがある。京急広軌だったのである。鉄道は経済と密接に関係しているが、「広軌」は戦後の新幹線でようやく日の目を見ることになった。それを推進したのは、島安次郎の長男の島秀雄技師長(1901年生)であった。安次郎の部下であった十河信二総裁とともに、父の無念を晴らしたのである。その秀雄の次男の島隆(1931年生)は台湾新幹線の建設に関わっている。島家は三代にわたってすぐれた鉄道技術者を輩出したのである。

島安次郎の子どもや孫たちは、道事業だけでなく、ソニー、朝日麦酒、日本電気などの場でそれぞれ大成している。将来を展望した島安次郎の技術屋魂は引き継がれて、日本の発展に大きく寄与したのである。この三代にわたる物語には感銘を受けた。