ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の17回目は「佐藤忠良」(彫刻家)。ギリークラブ「吉田初三郎の鳥瞰図 拡大凝視会」に参加。

https://www.youtube.com/watch?v=0qu89bUXVzk

「名言との対話(平成命日編)」3月30日。佐藤忠良「底光りするような個性というものは、競技者が一番でゴールに入るときの鍛錬にも似て、作家人生の終盤に出るのが本当ではないだろうか」

佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は日本彫刻家

1944年、32歳で出征する。33歳、ソ連の収容所3年間抑留される。36歳、復員。ここから本格的な彫刻家人生がようやく始まる。40歳、「群馬の人」が国立近代美術館に収蔵される。48歳、高村光太郎賞。54歳、東京造形大主任教授。62歳、芸術選奨文部大臣賞。74歳、生誕地宮城県に全作品を寄贈を表明。78歳、宮城県美術館佐藤忠良記念館が開館。83歳、宮城県大和町佐藤忠良ギャラリー。96歳、札幌に佐藤忠良記念子どもアトリエ。98歳、2001年3月30日、老衰のためアトリエ敷地内の自室で没した。

生前、日本芸術院会員に推薦され、文化功労者文化勲章の候補にも選ばれたが、本人は「職人に勲章はいらない」と語り、これら国家の賞を全て辞退した。

佐藤忠良ロダン高村光太郎の後継を意識していた。それは人間を中心に据えた造形であった。毎年「今年の抱負は」と聞かれて、毎年「去年の続き」と答えてきたという。つまりはたゆまぬ継続が信条なのだろう。自身の自称は「彫刻の職人」である。

シベリアの抑留生活は大変だったでしょう」と聞かれたとき、わらって「彫刻家になるための労苦をおもえばあんなものはなんでもありません」といってのけた。

2011年に世田谷美術館で開かれた「ある造形家--佐藤忠良」展も見た。そこで得た言葉。「絶えず「目と心と技術」の訓練をすることです。彫刻家は一個の像の中に主題のための「空間」と「時間」をできうる限りつめこまねばならない宿命を持たされていて、それには高度な精神と技術が必要になってくるからです」「デッサンは作者の目と心の硬化を防ぐ息の長い体操のようなものです」「段取り半分」。

「、、死ぬまで低空飛行ができたら素晴らしいなと考えている。もう上昇はできないし、いつか減速して下降するのだろうが、この低空飛行の持続は、よほどの浮揚力の蓄積がないと失速墜落ということにもなるだろう」。「彫刻家と人が認めてくれたとき、五十歳を越えていた」遅咲きの人・佐藤忠良は強い浮揚力で滑走路に足がつかないように低空飛行を長い期間続け、作家人生の終盤にようやく底光りする個性と品格を表現できたのだろう。

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ギリークラブ(渡辺幸弘主宰)の「吉田初三郎の鳥瞰図 拡大凝視会」を受講。

講師は地図の「昭文社」の石井強詞さん(編集企画チーフプロデューサー)。

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  • 「〇〇県のトリセツ」。「ドローン」「リモート」「メタバース」「今尾恵介」「原爆・広島」
  • 現代の広重。不変の自然。交通網、建物、名所を細心に。
  • インターネット世界に向いている。地図。拡大。県別でなく。萩と津和野。

「如何にして 初三郎式鳥瞰図は生まれたか?」という資料をもらった。

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「名言との対話」9月27日。大槻文平「ハンブル・ライフ(つつましい生活)」

大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1992年8月9日)は、宮城県生まれの日本実業家

宮城県立角田中学校東京帝国大学を出たあとに三菱入りし三菱鉱業社長、日経連(現・日本経団連)会長を歴任した。1990年、宮城県名誉県民になった。

大槻文平は、1928年に三菱財閥の中核企業の一つである三菱鉱業に入社し、地方の炭鉱のいくつかで労務対策を担当している。戦後は三菱鉱業の取締役労務部長から始まって経営に参画。1963年に社長に就任した。戦後のエネルギーが石炭から石油へと転換するという環境の中で、1969年には炭鉱の整理と大幅な人員削減を実施して「人切り文平」と呼ばれたが、従業員の再就職先斡旋に奔走し、ひとりの失業者も出さない穏健策で事態を収拾している。石炭に代わる新規事業への進出を図り、三菱鉱業セメント(現在の三菱マテリアル)を設立して社長に就任。斜陽産業を成長産業に切り替えた経営手腕が高く評価され、労務問題の専門家としてその総本山である日経連会長もながくつとめた。

若い頃、現場の労務担当として、多くの争議の収拾に奔走した大槻は、正しいことを一貫して主張し、譲らないことがいい結果をもたらすのであり、人間は信頼が大事だ、このような信念を持った。私も「労務」でビジネスマンのキャリアを出発したから、大槻の言葉はよくわかる。

・聖書に「叩けよ、さらば開かれん」という言葉があるが、あれ式にやってきたんですよ。何事にも一生懸命。

・大将がガックリしたり、しょげかえっていたら社員に響く。

大槻文平編著の『私の三菱昭和史』を読むと、戦後の財閥解体でばらばらになった三菱は、会長・社長の集まりである「三菱金曜会」をつくり、トップの交流をはかる体制をとった、このことが、グループの結束と難題に対処する原動力になった。また、丸の内三菱村と呼ばれた地域に主要企業が集まっていたことも、グループの交流に大いに役立っていることがわかる。「場」が大事なのだ。この本の中に私が入社した日本航空の本社が入った「東京ビル」もでてくる。三菱グループの課長クラスで構成された「三菱マーケッティング研究会」では、大槻は「内に向かってばかりいてはその発展はない。どんどん外延的に伸びていくことが必要だ」と強調している。

大槻文平は、日本人はぜいたくになり、何もかもが派手になりすぎているとして「物心ともにハンブル・ライフに徹すべきである」と語っている。「物」は、質素、飾り気がない、地味、倹約、である。「心」は、つつましい、慎ましい、控えめ、遠慮深い、である。

財界のトップになっても大槻文平は質素な暮らしを貫いた。「経営者の責務は働く者の生活に責任をもち、会社を立派に育て、それを次の後輩に渡していくことにある。」とする大槻文平は、このような信条からベア抑制論を展開し批判も受けたが成功もしている。その原点は炭鉱の労務係から出発したことにあると思う。

 

私の三菱昭和史 (私の昭和史シリーズ)