ビジネスマン時代の仲間との同窓会。深呼吸寄席に参加。

JAL時代の客室本部(国際客室乗員部)同窓会。福岡の松尾君が上京したのを機に横浜で開きました。メンバーは、右から望月、山崎、松尾、堀、久恒。

終了後、松尾君と懇談。

f:id:k-hisatune:20221013185754j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夜は深呼吸寄席。橘川・久米対談が1時間。5件づつ最新の話題でいつもためになる。ブラジル、ウミガメ、浜松、研究(人物。時代、、)、she9、民博のユニバーサルミュジアム展、、。

私も「文藝春秋創刊号」「読書革命ー電読と耳読の時代へ」と2件を発表。

f:id:k-hisatune:20221013212755j:image

 

f:id:k-hisatune:20221013212830j:image

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」10月14日。石川武美「記者の世界は自由の世界だ」

石川 武美(いしかわ たけよし、1887年10月13日 - 1961年1月5日)は、日本の実業家編集者

大分県宇佐出身。旧制宇佐中学を中退し上京。同文館に入社し、自由学園創始者の羽仁吉一らと『婦人の友』を創刊。1906年プロテスタント牧師の海老名弾正から洗礼を受ける。

1916年、28歳で東京家政研究会を設立し、出版事業に進出する。翌1917年『主婦の友』を創刊し、先行するライバルを圧倒しトップに躍り出る。1924年、(株)主婦の友社長に就任。

1924年、(財)石川文化事業財団を設立。1944年、日本出版配給去蝶を兼務。戦後は公職追放に会い事業を親族に譲る。1947年、女性専用のの私立図書館お茶の水図書館」(現・石川武美記念図書館)を設立。石川武美記念図書館は、2000年に男性も利用できるようになった。「近代女性雑誌ライブラリー」などがある。1950年、東京界出版販売(トーハン)社長。1958年には、婦人家庭雑誌の創造と確立に貢献したとして菊池寛賞を受賞した。

約100年前の『主婦の友』創刊号を読んだ。

新渡戸稲造博士(農学・法学)が「夫の意気地なしを嘆く妻へ」を書いている。「意気地のないのも病気と思へ」ともいい、「結婚の方法が間違ってゐる」ともいう。主婦は希望と楽しみを見出すように工夫し、結婚前の者は結婚に際して慎重に、研究、考慮して悔いのないようにすることが大切だとアドバイスしている。

海老名弾正牧師は「温泉と海濱とで神経痛を治す」を書いていた。過激な運動と過労が原因で神経痛を発症したが、修善寺の温泉で治り、ひと月の海浜生活で根治。した。そういう体験談だった。

見出しが実に興味深い。「私の感心した独逸の主婦気質」(貴族院議員)「お金を上手に遣ふ五つの秘訣」「何といって良人を呼ぶか(名流婦人方の返答)」「十五人家内の主婦としての私の日常」(安部磯雄夫人)「新婚の娘に贈った母の手紙」「ハイカラ奥様の一日」「夫人の運命判断」「共稼ぎで月収三十三円の新家庭」「女子供にも出来る有利な副業」「古今名婦鑑」「手軽な経済料理法」などが並んでいる。今のあまり変わらない感じがする。また、賞金付きの「主婦座右の銘」を募る、という企画もある。石川武美の主婦たちのニーズの把握力と頭の柔らかさに驚いてしまった。

「夫の呼び方」の実名アンケートをみると、呼びかけるときは「アナタ」「兄様」「父様」「名前」「パパ」「旦那様」「近角」「先生」「お父様」で、人に説明するときは、「主人」「タク」が多い。

「懸賞募集」というページある。「家計の実験」「主婦重宝記」「新作子守り歌」「笑ひばなし」などの投稿募集があり、それぞれに賞金も出している。ざっと眺めたばかりだが、面白かった。これなら、先行する『婦人の友』『婦女界』『婦人公論』などがかなわないわけだ。

石川武美が記者に向かって書いた文章がある。「うそを書くな、真実を書け」「体験を尊べ」「独創性を発揮せよ」「わかりよい文章を書け」「情熱をこめて書け」「材料をを豊富に集めよ」「読者の立場に身をおけ」「進歩主義者であれ」「人柄がすべてを決定する」などの見出しが並んでいる。石川武美は生涯記者だったのだ。

この文章の最後の方に、生涯を記者として送ったとした同時代の内村鑑三について「その感化と影響は、年とともに大きい波紋をつくりつつある。百年後二百年後には、いまよりもっと大きな働きをするかもしれぬ」と予言している。慧眼である。

石川武美は、企画力、文章力、教育力はもちろんのこと、時代感覚にすぐれ、先見力、経営力などを兼ね備えた傑物だったのであろう。そうでなければ、雑誌が100年も続くわけがない。