鮫島浩『朝日新聞政治部』(講談社)ーーテーマは「権力」である。

鮫島浩『朝日新聞政治部』(講談社)を耳読で読了。

日本のメディア権力の王として君臨してきた朝日新聞、そしてその中枢である政治部で活躍し、最後は組織から斬られた敏腕記者の上昇と転落のノンフィクションである。

著者・鮫島浩が語る自身のキャリア史を通じて、新聞界に君臨する朝日新聞の内実と奥の院の権力の姿がみえる。そして政治部記者が接する政治権力との関係や実態が理解できる。この本のテーマは「権力」である。政治権力の監視という記者の矜持をもって、与謝野馨竹中平蔵菅直人らとの緊張のなかでつむぐ人間的な関係も興味深い。

著者は50歳までの抜くか抜かれるかという新聞記者生活で、起き上がりこぼしのようなキャリアをたどっている。特ダネや新機軸の成功による上昇、そして思いがけない転落を何度も経験する。そのことを登場人物を実名で臨場感をもって描き出している。

朝日新聞という権力の実態を垣間見ることができる。社内権力の様子を描いたところは、大企業に籍を置いた人なら、「わが社も同じだ」と苦い共感を持つだろう。自身の職場の改革と業界の革新を目指す社員の物語を描いた企業小説でもある。イトマン事件を描いた國重惇史住友銀行秘史』(講談社)と同じように読まれているいるのだろう。

出世と左遷のくり返しという厳しい記者生活のなかでみる、上司、同僚が織りなす人間模様、挑戦、保身、人事、賞賛、嫉妬、反感、失態、、、、、。エースが社長になれないという大企業病など、身につまされる読者は多いだろう。

著者は、福島原発事故の吉田調書を手に入れた大スクープで政府を追い詰めるが、経営の危機管理の失敗で政府権力と同業社からの反撃にあう。そしてトップの判断の誤りで窮地に陥った慰安婦報道バッシング、池上コラム問題での判断ミスの3点セットで日の当たる部署からまたも左遷される。そこでSNSに目覚めていくのである。

著者に共感する人が多いのは、左遷された部署で、自社と業界の問題点を見つけ、ヒットを飛ばし復活することだろう。左遷部署での「調査報道」の発見、「デジタル報道」のモデル形成などは、時代の流れに後れをとって、この間、800万部から500万部へと発行部数が急減しつつある朝日新聞と業界の未来のための重要な武器であることを示唆している。

そういった問題意識と突破力の強い最新の武器を携えて、企業ジャーナリストを辞めた鮫島は『サメジマ・タイムス』というメディアを立ち上げた。妻と二人の零細企業だが、ネット時代はたった一人で大メディアに挑戦できることを証明しつつある。機器の改善と価格低下によって、映像、音声などを含めたユーチューブでの発信は、あぐらをかいてきた大メディアの脅威だ。朝日新聞は2000名の記者を抱え、4000名の社員がいる。それに一人で対峙できる時代になりつつあるのだ。そういった大企業に個人が対抗できる可能性をさぐっているのである。

私も最近、何本か見て、聞いたが、忖度のない歯切れのいい確かな政局報道や時代の先端を走っている人へのインタビューなどなかなか聞かせる。渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』を地でいっているから、この新たな挑戦は成功するだろう。考えてみれば、鮫島浩は50歳を過ぎたあたりだから、青年期を終えて、私のいう壮年期にはいったばかりなのだ。この人には注目していこう。

夜はズームでの定例ミーティング

・デジタルメディア研究所

・力丸さん

・深呼吸学部ミーティング

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「名言との対話」10月17日。沢田廉三「どんな子も、人間として生を受けた以上、立派に育っていかなければなりません」

沢田 廉三(澤田 廉三、さわだ れんぞう、1888年10月17日 - 1970年12月8日)は、日本外交官

旧制鳥取中学、旧制一高、東京帝大法科大学仏法科卒。外交官試験に首席合格し外務省に入省。

フランス。アルゼンチン・ブエノスアイレス。中国・北京。イギリス・ロンドン。フランス・パリ。アメリカ・ニューヨーク。満州国大使館参事官。1938年、外務次官。駐フランス特命全権大使。駐ビルマ特命全権大使。1944年、二度目の外務次官。ニューヨーク国連代表部特命全権大使。国連日本政府代表部長。外務省顧問。スエズ運河国際会議代表(ロンドン)。国連第十一総会代表(ニューヨーク)。1960年、日韓会談日本国首席代表。キャリアを一覧すると、外国を転々とする外交官という職業のすさまじさをみる。

東大在学中に『赤毛のアン』の翻訳者・村岡花子の初恋の人になる。2014年のNHK朝ドラ『花子とアン』では北澤司という名前で登場している。

1922年には三菱財閥の3代目総帥・岩崎久弥の長女でお転婆だった美喜と結婚。美紀はアルゼンチン、中国、イギリス、フランス、アメリカと夫について世界をまわるが、イギリスのドクター・バーナーズ・ホームでのボランティアが、美喜の運命を変えることになる。1948年、妻の沢田美喜が米兵と日本人女性の間に生まれた混血児のための施設である大磯にエリザベス・サンダーズホームを創立する。

沢田廉三は1942年、財団法人滝乃川学園理事長(1946年まで)に就任している。私は2022年2月に国立の社会福祉法人「滝乃川学園」を訪問した。日本初の知的障害児施設だ。創立者夫妻の「石井亮一・筆子記念館」を訪問したが、コロナ禍で中には入れなかった。石井亮一、石井筆子に次いで第3代学園長は渋沢栄一がなっていた。沢田廉三はその後任だったことが今回わかった。

重光葵『外交回顧録』を読んだことがある。重光は沢田とはほぼ同年代である。沢田はこの本で3度登場していた。パリ大使館の沢田書記官、ニューヨークから帰朝中の沢田領事、沢田フランス大使だ。

沢田廉三は、国連大使退任後は神奈川県大磯に住み、妻・美喜のエリザベス・サンダースホーム事業に協力している。知的障碍児施設の滝乃川学園、混血児孤児施設エリザベス・サンダーズホームにかかわっているところをみると、福祉に関心をもった人物だったのだろう。また、1955年から亡くなるまで郷里・鳥取県の県政顧問を務めている。

私は2006年7月に大磯の沢田美喜記念館を訪問している。2005年11月2日につくったプレートには、104名の逝去者の名前が刻んであった。目についた名前を控えてみた。アブラハム:澤田廉三、エリザベス:澤田美喜ピーター:澤田久雄、エリザベス・サンダース、ステパノ:澤田晃、パウロ:田実渉、、。8月15日には、「女の一生シリーズ」の中で「2000人の孤児の母・澤田美喜」という2時間の番組が日本テレビで放映された。美喜を演じたのは松坂慶子、夫の廉三は江守徹、父の岩崎久弥は児玉清という配役だった。涙を禁じ得なかった。

沢田廉三の言葉は見いだせなかったので、同志でもあった妻の美喜の言葉を選んでみた。「どんな子も、人間として生を受けた以上、立派に育っていかなければなりません」。