『心を成長させる 名経営者の言葉』(日本実業出版社)を刊行。

電子出版で、『リーダー・管理職のための 心を成長させる 名経営者の言葉』(日本実業出版社)を刊行。

食、健康、美、文化、教育、メディア、電機、養豚、映画、酒、芸術、電力、花、出版、ファッション、スポーツ、漫画、情報、テレビ、新聞、ホテル、書店、、、などあらゆる分野の戦後日本の事業家・経営者たちが絞り出した珠玉の名言、極上の言葉と、その言葉が生まれた背景を紹介。

 

以下の人物を取り上げている。

梁瀬長太郎。鹿島守之助。石田礼助田辺茂一。櫻田武。川又克二。佐伯勇。岩田弐夫。弘世現。布川角左衛門。藤井康夫。立川孟美。盛田昭夫。鈴木常司。賀来龍三郎。小倉昌男。増田通二。佐伯勇。氏家斎一郎。山下俊彦。堤清二船井幸雄

鳥井信治郎本田宗一郎石橋信夫新井正明利光松男。大社義規中内功。平岩外史。村木良彦。大賀典雄岡田茂。樋口廣太郎。保直次。笹崎龍雄。江副浩正堀場雅夫

川喜田半泥子奥村綱雄勅使河原蒼風。樫山純三。土光敏夫。田村魚菜。松前重義。大槻文平。柳田誠二郎。長井勝一。斎藤英四郎。中野又右エ門。松尾孝。村上信夫安藤百福。小島勝平。鬼塚喜八郎。小西和人。高宮行男。高野悦子。甘糟章。

石坂泰三。木川田一隆。越後正一。塚本幸一。美川英二。武田豊江頭匡一。稲森俊介。瀬戸雄三。永島廣雄。

石田退三。立石一真。清水達夫。磯田一郎。園城寺次郎。井深大。河村勝己。佐治敬三。高橋荒太郎。鳥井信一郎。岩谷直治。永谷嘉男。能村龍太郎。山田昭男

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・川柳の整理。1冊108句で2冊分が完成。さて、これのイラストや表紙をどうするか。『深呼吸和歌集』を参考に。

・スイミング300m

・参加型社会学会ミーティング。

・力丸さんとのミーティング。

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「名言との対話」12月6日。土井晩翠「天上影は替らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなほ 嗚呼荒城のよはの月」

土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日明治4年10月23日) - 1952年昭和27年)10月19日)は、日本詩人英文学者

土井晩翠は仙台には晩翠通りという大きな道路があるなど市民には馴染みの深い名前である。2005年の日曜日の午後、青葉通りと晩翠通りの交わったあたりにある晩翠草堂を訪ねた。平屋で立派な庭もあり、漱石草枕に「要領を得ぬ花が安閑と咲いている」と書いた木瓜(ぼけ)の実がなっていた。晩翠の自宅は太平洋戦争の空襲で3万冊の蔵書とともに焼けてしまった。この草堂はそれを見かねた晩翠の弟子たちがお金を集めてつくってくれたという曰くつきの家である。30歳から母校仙台第二高等学校の教授であり、優れた教育者であった晩翠の影響力を象徴する出来事といってよいだろう。

晩翠は第二高等学校から東京帝大文学部にすすむが、その前に質屋という商売には学問は要らぬという祖父から進学を止められた晩翠は、日本最初の和英辞典をつくった斉藤秀三郎の仙台英語塾に入っている。

30歳で故郷に帰った晩翠は3年間のヨーロッパ留学期間を除き、仙台で生活をする。第二高等学校で64歳で定年になるまで続けた優れた教師としての仕事と、影響力のある著作の執筆にその生涯を費やし、失意の中で仙台に住みその自然にすっかり癒されて生まれ変わった経験のある島崎藤村とともに、2人の自由詩の巨人の「晩藤時代」を築く。1949年には仙台名誉市民、1950年には詩人として初めての文化勲章を受章している。仙台には晩翠の教え子たちで構成された晩翠会という会が、訪問した2005年時点で健在であると聞いて驚いた。かなりの高齢者が多いが、事務局が仙台近代文学館にあるとのことだった。1952年に80歳でその生涯を閉じた晩翠の記憶は仙台の人にはまだ鮮明な像を結んでいる。

晩翠草堂に掲げてある写真の中で、もっとも惹かれたのは「晩翠と教え子たち(二高教室にて)」という写真だ。壮年の晩翠を真中に40名ほどの旧制高校生達が笑顔で取り囲んでいる。敬愛された素晴らしい先生であったことをうかがわせる写真である。「教師・土井晩翠(吉岡一男)」というエッセーには「全国から来る学生の面倒を見たり、卒業してからの相談にのるなど学校内外でも尊敬される先生でした。」「人生を教えてくれる名物先生でした」とある。

晩翠には第一詩集「天地有情」、「曙光」「暁鐘」「那破翁」「東海遊子吟」などの優れた作品がある。一番なじみが深いのは「荒城の月」の作詞や「星落秋風五丈原」だろう。築館出身の白鳥省吾の書いた「詩聖」の額が飾ってある。また、「空は東北山高く」で始まる第二高等学校校歌を作詞した晩翠は、求めに応じて県内はもちろん日本各地の200以上の校歌の作詞もしている。

展示された本の中には「雨の降る日は天気が悪い」(装丁は岡本一平)という伊達政宗と沢庵和尚の禅問答に題材をとったものもあった。この本で「つちい」から「どい」に苗字の読み方を変えたいきさつを書いてあるそうだ。

晩翠草堂には二部屋あり、ベッドのある寝室には「酒という文字を見るさえうれしきに のめといふ人 神か仏か(読み人知らず)」という自ら書いた書があった。酒好きだったのだろうと親しみを覚えた。

「Moon Light Elegy」(R.Taki)という額も飾ってあった。荒城の月の英訳である。晩翠はこの英訳が気に入っていたという。そして野口明という人の描いた晩翠像を写真にしたものは、マント姿という二高教授の正装だった。凛々しい姿を表現しており、これもお気に入りだったそうだ。

晩翠を敬愛する晩翠草堂の案内のおじさんは的確な知識とあふれる熱意で説明してくれて感心した。この草堂は仙台市の持ち物だが、「窓口サービスアンケート」の結果を張り出してあり、5点満点で4.87という高得点だった。熱意ある案内人の人柄と風貌、これも人物記念館の好もしい風景の一つである。1960年から、晩翠賞と児童賞(東北6県)が続いている。

晩翠の作品で一番なじみが深いのは「荒城の月」の作詞だろうか。その4番を自分なりに訳してみよう。「空の月は永遠にかわることなく存在している。栄枯は盛衰するという人の世の姿。月はそれが真の人の世の姿であると示そうとしているのであろうか。今は荒れ果てた城には栄えた時代の光はなく、ただ夜半の月だけがみえる」。