宿泊は「神の湯温泉」。
甲府市内をのぞむ小高い丘の上。甲府の奥座敷の住宅街の奥にある。7種類の温泉。甲斐の山々と霊峰富士をのぞむことができる。温泉がいい。
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急きょ、山梨出身の望郷の歌人・山崎方代の足跡を訪ねることになった。
山梨県立文学館「方代コーナー」。交流館。右左口村の生家跡記念公園。
1914年生。戦争、放浪を経て、41歳で第一歌集『方代』。58歳から鎌倉在住。60歳で第二歌集『右左口』。66歳で第三歌集『こおろぎ』。1985年、71歳で死去、第四歌集『迦葉』。1987年に鎌倉で「方代を語り継ぐ会」発足。1988年に「山梨・方代会」発足。1995年、没後10年に『山崎方代全歌集』刊行。「方代記」。2014年には生誕100年の記念特別展(鎌倉文学館・山梨文学館)。
人生の後半、特に60歳からの晩年に歌集、随筆を刊行。そして死後に評価が高まった歌人である。こういう人も「遅咲き」というのではないか。
資料と書籍を入手したので、深掘りをすることにしたい。
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「名言との対話」6月29日。瀧廉太郎「微力ながら日本語の歌詞に作曲した曲を世に出すことによって日本歌曲の発展に寄与したい」
瀧 廉太郎(たき れんたろう、1879年(明治12年)8月24日 - 1903年(明治36年)6月29日)は、日本の音楽家・ピアニスト・作曲家。享年23。
瀧廉太郎には「荒城の月」「箱根八里」「花」「お正月」「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」など、現在でも歌い継がれている作品の作曲者である。
2005年に故郷の大分県竹田市にある瀧廉太郎記念館を訪問した。竹田は、小京都や遊芸の町と呼ばれている。直入郡の郡長であった父が住んだ町の中の屋敷が記念館となっている。父吉弘は日出藩家老を経て、維新後は内務省で大久保利通や伊藤博文に仕えている。廉太郎は東京、横浜、富山、東京、大分、竹田と父にしたがって動いている。ここで12歳からの2年半を過ごしている。1879年生まれで、朝倉文夫と同じ小学校の3年上で、朝倉文夫の肖像彫刻も残っている。東京音楽学校(現東京芸大)研究科卒業後、母校の教師となる。歌曲集「四季」、中学唱歌「荒城の月」「箱根八里」などを作曲。明治34年ドイツに留学したが結核にかかり帰国。
父から「将来、何になりたいのか」と問われた廉太郎は「音楽家になりたい」と答え、なりそこねたら「おしろい(歌舞伎役者)になります」と答えたという。東京音楽学校は首席で卒業している。
「四季」の緒言では、日本の音楽はせいぜい学校唱歌程度であって、今回の作品のような程度のものは極めて少ないと自信のほどをうかがわせている。西洋の物まねばかりの状態を残念がったそうだ。新しい音楽を目指したのだろう。またわかりやすく、楽しい音楽を目指した。
ドイツ留学でライプティッヒ音楽学校に入学するが結核にかかり帰国する。帰りのロンドンで土井晩翠が会いにくる。「荒城の月」は、土井晩翠の詩に曲をつける募集があり、廉太郎が応募し一位になったという経緯があり、晩翠が会いにきた。仙台の城や会津の城をイメージした「荒城の月」の詩をよんだ廉太郎は、竹田の岡城のことだと思ったという。この作詞・作曲コンビは生涯一度しか会えなかった。「人生は短し 芸術は長し」はこの廉太郎のためにあるような言葉だ。23年の短い人生を疾風のように駆け抜けた。
この記念館の名誉館長はジャーナリストの筑紫哲也だった。彼が大分県出身ということは知っていたが、錬太郎の妹の安部トミの孫にあたるということだ。「大音必稀」と書いた筑紫哲也の書が掲げてあった。
ドイツ留学の船旅の日程が地図にプロットされていた。4月7日に神戸、9日の長崎、13日上海、16日香港、21日シンガポール、ペナン、26日コロンボ、5月5日アデン、9日スエズ、10日ポートサイド、13日ナポリ、14日ジェノバ、ミラノ、18日ベルリン、6月7日ライプティッヒ。ヨーロッパ到着まで1か月以上かかっている。
岡城址。瀧廉太郎の「荒城の月」の音楽を生んだ舞台である。竹田は山々を描く南画の世界そのもであるといわれたが、山の上の台地を切り拓いて堅固な城をつくった、その名残りがこの岡城址である。確かに登り口以外の壁にあたる部分は、峻険で断崖絶壁で容易に人を寄せ付けない自然の城だ。大手門まで登ると後は、ほとんど台地となっていて広い。この中に三の丸や西の丸、家老の居宅、賄い方などの跡があり、本丸は一段と高くなっている。本丸に登ると360度に景色が見渡せる。北は九重・大船山の九州アルプス連邦、西は東洋一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母山(1756m)、傾山(1602m)の高峰一帯の大森林を一望のうちに収めることができる。そして下には2つの川が見える。牛が臥した形に似ていることから、臥牛城とも呼ばれている。
日本の音百選に選ばれた岡城址では、風が大木の枝や葉をかすめる音がサワサワ、サワサワと響いている。また川の瀬音も聞こえる。
「春高楼の花の宴 めぐるさかずき 影さして 千代の松枝 わけいでて 昔の光 今いずこ」という土井晩翠の「荒城の月」の歌詞が彫られた石碑が建っている。
この城は、大野郡緒方荘の緒方三郎惟栄が源義経を迎えるために築城したと伝えられている。1586年に島津の大軍の猛攻を18歳の志賀親次が支え、秀吉から感謝状をもらっている。その後、中川氏の居城となった。御廟の山城、本丸と二の丸・三の丸が平山城、西の丸が平城で築城史上特異な城である。
本丸から下ったところに楽聖・瀧廉太郎の像が建っている。もしやと思って裏に回るとやはり朝倉文夫の署名があり、建立時のいきさつや友情が記されていた。
「瀧君とは竹田高等小学校の同窓であった。君は15歳、自分は11歳。この2つの教室は丁度向かい合っていたので、わずかに1年間ではあったが、印象は割合に深い。しかしそれから君の亡くなるまでの十年間はほとんど何も思い出せないのに、11歳の印象を土台に君の像を造ろうというのである。多少の不安を抱かぬではなかったが、製作に着手してみると印象派だんだん冴えてきて古い記憶は再び新しくなり、追憶は次から次へとよみがえる。学校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君。それは稲葉川の為替に印した忘れることのできない韻律であった。そして八年後には一世を画した名曲「四季」「箱根の山」「荒城の月」に不朽の名を留めたことなど、美しい思い出の中に楽しく仕事を終わった。
昭和25年8月15日 朝倉文夫
今自分は五十七年前の童心に立ちかえり 幽懐つくるところをしらず 君を塐(つく)れば笛の音や将に月を呼ぶ
このような高台にある大きな城跡は見たことがない。瀧廉太郎が12歳から14歳の時分にこの岡城に何度も足を運び、大きな影響を受けたことが偲ばれる実に印象深い場所だった。
「微力ながら日本語の歌詞に作曲した曲を世に出すことによって日本歌曲の発展に寄与したい」は、「花」(春のうららの隅田川、、)がおさめられている歌曲「四季」の初版の序文に廉太郎が記した言葉である。23年という極めて短い生涯であったが、この志がつくった歌は、日本の音楽の近代を牽引したのである。