「川柳」生活も2ヶ月。1日7句で400句となった。

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10月から川柳を始めて2ヶ月経った。1日7句つくろうと決めていたら、いつの間にか400句ほどになった。

自己流なのでこれが川柳と呼んでいいのか、という疑問はあるが、自分なりに楽しめているから、まあいいか。「一人一党」という言葉もある。当面はそれでやってみよう。

  • ユニクロと スシロー ニトリ 衣食住
  • 幸せは 小さな方が 安心だ
  • 禿頭と 白髪の夏 同窓会
  • 四世代 三々五々の 七五三
  • チト早い 二度寝起きたら モウ遅い
  • 哀しいね こんなヤツらに立法権
  • 多様性 生物以上の 人間性
  • 会社人 卒業やっと 社会人
  • 人を責め 自分に甘い 正義漢
  • 文化の日 たまには本を 読もうかな
  • 地図アプリ 方向オンチ まだ迷う
  • どこみても 必要なのは 荒療治
  • 秋深し 今日は喪中の 葉書来ず
  • 震度ゼロ 一番怖い 凪の今
  • お歳暮も 鬼籍が増えて 減ってゆく
  • 不器用が 器用貧乏 越えてゆく
  • のど自慢 家族自慢 クニ自慢
  • 床山呼び出し相撲取り行司審判、大相撲
  • 国難は らしさ失う 日本人
  • 政治屋の 不祥事に麻痺 you,tooか
  • サザエさん 庶民の笑い 今もなお
  • うたた寝も スマホ・リモコン 腹の上
  • どの会も 緊急課題は 若返り

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「名言との対話」12月4日。古賀忠道「弱いものを かわいがる心を育てたい」

古賀 忠道(こが ただみち、もしくは、こが ちゅうどう、1903年12月4日 - 1986年4月25日)は上野動物園初代園長。

佐賀県出身。1928年、東京帝国大学農学部獣医学科を卒業。東京市公園課に就職し、1882年に開園した上野恩賜公園動物園に勤務した。1937年、クロヒョウ事件をきっかけに動物園長職ができ初代園長に就任。

動物園は一種の教育だとの信念があった古賀園長は、1946年に映画館「かもしか座」の開設、1948年には子供動物園を開園、おサル電車の開通などを実行した。
1949年、インドのネルー首相よりアジアゾウの「インディラ」が贈られて、大ブームとなる。翌年の1950年には列車でインディラを運び、日本各地の動物園で披露する移動物園を実施している。アイデアの豊富な名物園長であった。1962年、上野動物園創立80周年記念祭を最後に退職した。

退職後は、財団法人東京動物園協会理事長に就任。国際自然保護連合(IUCN)日本委員会の委員長、世界野生生物基金WWF)日本委員会の設立に尽力した。

古賀忠道生誕100年の2003年には、記念展示が行われ、写真、解説パネル、記録フィルムが上映された。古賀忠道は、「ZOO IS THE PEACE」とも語っていた。世界で内乱や紛争があると、動物も悲惨な状況に陥る。上野動物園クロヒョウ脱走事件(阿部定事件、ニ・ニ六事件と並ぶ11年の三大事件)もあり、日本でも第二次大戦中は、飼育動物を殺害している。平和を願う動物園人の願いをこの言葉に込めたのである。動物園は平和施設という考えでもあった。

NHK「あの人に会いたい」の映像をみた。狭く日当たりの悪い環境の改良を行っている。ノイローゼになる猿が多かったこともあり、野生の環境をサル山という形で実現し、野生展示という新しい方法を開発している。

古賀によれば、動物園は一種の教育施設だ。アメリカ・ワシントンの膨大な博物館群や上野の博物館、美術館などは、国民教育の文化施設だと感じていたが、動物園もとくに子どもの教育に大きな影響のある施設なのだ。古賀は「やさしい心」を育てようと、子どものための施設の改良やイベントを開発したのである。

移動動物園では、静岡、甲府、新潟、青森、札幌など、インディラらを連れて3500キロの旅をし、日本各地の動物園で子どもたちに親しませている。

「園長さん」として親しまれ、上野動物園を世界有数の動物園に押し上げた古賀忠道は、子どもの「弱いものをかわいがる心を育てたい」と映像の中で語っている。

私の動物園経験をふり返ると、子どもの頃に行った以外は、子どもが生まれてからはよこはま動物園ズーラシア、孫が生まれてからは多摩動物公園に通っている。そういえば、上野動物園には入ったことがないことに気がついた。古賀忠道が精魂を傾けた動物園をみることにしよう。