明日の図解塾の準備。『梅棹忠夫著作集』第5巻「比較文明」を図解で読み解く講義。
前回は「比較宗教論」「ふたつのながれ」「西型と東型の対比」「インドにおける仏教の運命」だった。復習の新しいやり方を考案したので、試してみよう。
今回は「ふたつの帝国」「宗教の分裂」「チベットとエチオピア」「辺境の布教」がテーマ。講義の準備もほぼ終了。
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「名言との対話」12月6日。大河内正敏「いいんだよ 出し惜しみしていては いつまでたっても欧米には追いつけん!」大河内 正敏(1878年(明治11年)12月6日 - 1952年(昭和27年)8月29日)は、物理学者であり実業家である。
大河内正敏という人物については、「名言との対話」で取り上げたこともあるし、名前もよく見かけてきた。今回、宮田親平『「科学者の楽園」をつくった男 大河内正敏と理化学研究所』(河出文庫)を読んで、その全体像がみえた。
高峰譲吉が国民科学研究所設立の構想をぶち上げ、渋沢栄一が設立委員長として奔走し、ようやく理化学研究所が設立される。化学に加えて物理も入った研究所である。
初代所長は菊著大麓、第二代古市公威。危機にあった理研の第三代所長には、造兵学の43歳の大河内正敏が抜擢された。大河内の先祖は「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守である。毛並みがいい。頭がいい。美男子。教養は群を抜いている。グルメ。庭園や建築意も詳しい。絵を描く。陶磁器鑑賞家。なんでもござれのスーパーマンであった。
危機に直面して選ばれた第3代所長の大河内正敏の改革は際立っていた。ピラミッド構造を粉砕し、主任研究員制度を導入。組織をフラット化し「長」と名のつく職制を廃止。予算、人員など一切を主任研究員にまかせるという方式である。出勤簿はない。研究テーマは自由。義務はない。大学教授との兼任も認めた。学問の垣根を取り払う。女性の研究員を増員。組織改革のテーマは「自由と平等」だった。そこで得たエネルギーを技術移転による製品開発に向け、一大コンツエルンを築く。基礎研究と応用技術による起業が理研精神の両輪だった。
理研の三太郎と呼ばれた科学者は、長岡半太郎、鈴木梅太郎、本多光太郎である。長岡半太郎は物理学の中心、仁科芳雄は現代物理学の父と呼ばれ、ノーベル賞の朝永振一郎、湯川秀樹を育て、福井謙一にも影響を与えた。鈴木梅太郎はビタミンAの発見と応用で理研に大きな収入をもたらした。寺田寅彦もいた。理研の三代議士の一人の田中角栄総理は膨張期の理研産業団の工場建設を請け負った。日本医師会の武見太郎も理研の研究員だった。リコーの創業者の市村清も「理研光学工業」を任され、後に独立してリコーとなった。
大河内の周辺は皆心から尊敬し、愉快に研究に没頭することができたという。「人を見る眼が特に秀でて、偽物は直ちに見破られ真面目な研究者をよく保護し育成した」と言われた。「あまり文献を読みあさると、独創力が鈍る」「基金がなくなるまで」「基礎科学の研究が主、発明は従」、大河内の言葉である。
所長生活は25年に及ぶ。大河内は、戦犯容疑で巣鴨に収監される。随筆を執筆し『味覚』という本を出版している。葬儀は「科研葬」であった。
「殿様」「大名風」と呼ばれたおおらかな大河内正敏は、就任時100人未満であった所員は5年目には400人と理研を日本を代表する研究機関につくり上げ、鮎川義介の日産コンツェルンと並ぶ、63社・121工場もの企業群を擁する企業集団に育て上げた。
しかし最大の成果は、人材輩出の面で素晴らしい業績をあげたことであろう。文化勲章は10人以上。学士院賞は30人以上。ノーベル賞は2人という具合である。欧米に追いつこうと突っ走った大河内正敏は、発見や発明もどんどんオープンにし国家の発展を科学面から支えたのである。大河内は「科学者の自由な楽園」をつくったのだが、実は科学者の厳しい研究現場でもあり、素晴らしい業績をあげ続けた「理研」にしたのである。このことは大学や研究機関の運営の示唆を与えるものだ。