「八木哲郎さんを偲ぶ会」ーー「偉い人」「名伯楽」「ライフワーカー」「ネットワーカー」「肥後もっこす」。

夜は「八木哲郎さんを偲ぶ会」12人の方々が参集された。

八木哲郎さんは、NPO法人知的生産の技術研究会の創業者。

以下、参加者の言葉から。

記憶力。律義。好奇心旺盛(野次馬精神)。「いずれつながってくるよ」。「感染させること」。ライフワークは中国(馬力が強い。次のライフワーク「義兄弟」)。知研に入って良かった。マメ。純朴。まろやかな人柄。、、、

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私の発言。「偉い人」「名伯楽」「ライフワーカー」「ネットワーカー」「肥後もっこす」。

以下、亡くなった二日後の私のブログから。

八木さんは「偉い人」だ。私は人の偉さは与えた影響力にあると考えている。八木さんは深く、広く、そして長く、若い人たちに影響を与え続けた偉い人である。人は育てた人の中に生きていく。そしてその人を通して次の世代以降にも影響を与えていく。人は死なないのだ。八木さんは生き続ける。

八木さんは「名伯楽」だ。八木さんに育てられた人は多い。私もその一人だ。私には人生の師が3人いる。野田一夫先生は新しい世界へ招いてくれた大恩人だ。寺島実郎さんは不動の北極星という存在だ。八木さんはじっくりと育ててくれた名伯楽である。「伯楽は常にあれども伯楽は常にはあらず」。名伯楽によって今日までなんとか歩いてきたという感慨が私にはある。

八木さんは「ライフワークに取り組んだ人」だ。「『19世紀の聖人 ハドソン・テーラーとその時代』と今回の『義兄弟』でライフワークが終わった。可能ならもう一冊」と2015年に私に語ってくれた。上下巻で1000枚の大作の小説「義兄弟」は完成したが本にはなっていない。2020年には『中国と日本に生きた高遠家の人々』も上梓している。中国と宣教師というライフワークにかけるエネルギーには敬服する。

八木さんは「肥後もっこす」だ。若い頃は狷介だったと自らを語っていたことがあるがそういう場面には私は出くわしたことはない。熊本県人の特徴を示す「肥後もっこす」と自称していた。以下、その特徴をあげてみる。ーーーー純粋で正義感が強く、一度決めたら梃子でも動かないほど頑固で妥協しない。短気で感情的で強情っぱり。意外と気の小さいところもある。プライドや競争心が強く、とくに恥やメンツにこだわる。曲がったことを好まず駆け引きは苦手で、他者を説得する粘り強さに欠け、プライドや反骨精神が強いため、組織で活躍することは向いていない。激しい性格でも陰険ではなく、南国らしく大らかで明るい。 不器用なところがあり、裏技や小細工といったものとは無縁。強情なだけでなく神経が細やかで細かい心配りができる。肥後の腰提灯。意地の熊本。肥後の引き倒し。、、、、まさに八木哲郎さんは肥後もっこすの典型だったなあ。ご冥福を祈ります。 

 

以下、SNSフェイスブックへの終了後の書き込み。

  • 本日の「八木哲郎さんを偲ぶ会」どうもありがとうございました。知研会員になってから結構長いのですが、八木さんとは年に1回ほどセミナーでお会いしたくらいでした。参加したときはとても親切で丁寧に接してくださったのが印象に残っています。今日、八木さんについて多くのことを初めて知ることができ、本当によかったと思っています。知研のような勉強会がこれまでにも多く立ち上がったと思いますが、50年の長きにわたって続いてきたことはすばらしいことです。初期の会員のことも知りましたが、そうそうたるメンバーがいらっしゃったことも分かりました。私個人にとっての知研ですが、東京都教育委員会や都立高校副校長だった極めて多忙な時代にも、知研から送られてきた会誌を読み、できるだけセミナーにも参加してきました。知研や知研とつながった方々の主宰する会などで多くの人的つながりを得ることができ、今日の自分があると思います。先日、都立高校副校長会60周年記念誌にOBとしてお祝いの原稿を書いたのですが、人生100年時代のために忙しくても異業種のつながりをもつことの大切さを自分と知研との関わりを例に挙げて現役の副校長さんたちに伝えました。今後、知研からいただくばかりでなく、できる範囲でアウトプットもしていきたいと思っています。
  • 本日の八木哲郎さんの偲ぶ会で、皆がご本人のことを語らい合い、改めて、その偉大さを実感致しました。八木先生は上海生まれと言うことで、キーワードの一つが中国であったような気がしております。ご性格も肥後もっこすの片鱗が、私がお付き合いさせて頂きました晩年でも感じられました。最後の著作「高遠家の人びと」は戦前の時代に生きた色々な方の思いが良く描かれていると感じました。心より、ご冥福を申し上げます。
  • 皆様、おつかれさまです。本日は知研セミナー「八木哲郎さんをしのぶ会」に参加し、ゆかり深き方々からのお話を聞かせて頂きました。若きサラリーマン時代に会社となじまず、余暇で通った執筆家養成塾での活動に傾倒。脱サラ後はタイプライターや冷凍食品の販売業を手掛ける傍ら、知的生産の技術研究会を設立され様々な業種の方を招聘した講演会を運営、実績を重ねられたとの事。偉大なる方も若き日にご苦労が有ったというエピソードは大変以外でした。お生まれが中国天津、外語大では中国学科を専攻と、のちに戦前中国の家庭を題材にした著作にもつながったであろう知のバックグラウンドや、「集中力・記憶力」「暖かなお人柄」「ヒトづくりの伯楽」「完璧主義」「肥後もっこす」といったパーソナリティを彷彿させるエピソードを伺う事が出来、私のような「どこの馬のホネ」でも雲上人を身近に感じさせて頂く事が出来ました。世の人へ広く影響を与え、それが長く持続し、この様に亡くなってもなお人が集うという偉人ぶりにただ感心したことが本日の収穫となりました。大変貴重なお話に1時間半はあっという間に過ぎて行きました。有難うございました。
  • 皆様お疲れ様でした。 私も入会した以降の八木さんのことしか知りませんでした。生い立ちから知研を立ち上げる迄の歴史を知る事ができ、改めて八木さんの凄さを知りました。八木さんには、25年前にを立ち上げた福岡支部NPOの立ち上げでお世話になりました。晩年は、例会でお会いする程度でしたが、もう少しいろいろと話しておけば良かったと悔やまれます。今後は、自分なりに周りに影響を与える事ができるように、人間性を身につけられるよう精進していきます。 素晴らしい追悼セミナーをありがとうございました。
  • 本日の八木哲郎さんの偲ぶ会で、皆がご本人のことを語らい合い、改めて、その偉大さを実感致しました。八木先生は上海生まれと言うことで、キーワードの一つが中国であったような気がしております。ご性格も肥後もっこすの片鱗が、私がお付き合いさせて頂きました晩年でも感じられました。最後の著作「高遠家の人びと」は戦前の時代に生きた色々な方の思いが良く描かれていると感じました。心より、ご冥福を申し上げます。

 

 

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立川

・整体

・知研の福島さんとミーティング

・幸福塾の塾生の谷さんと食事。「わかまつ」

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「名言との対話」12月16日。北村西望「たゆまざるあゆみおそろしかたつむり」

北村 西望(きたむら せいぼう、1884年明治17年)12月16日 - 1987年昭和62年)3月4日)は、日本彫刻家

長崎県西島原市出身。東京美術学校彫刻科時代に、文展で「奮闘」「雄風」「壮者」などが入選など。首席で卒業。卒業後、「怒涛」が文展二等賞。「晩鐘」が特選。1919年の帝展以降は審査員。1921年東京美術学校教授。作品は「児玉源太郎大将騎馬像」「山県有朋元帥騎馬像」「板垣退助翁」など、勇壮な男性像が多かった。「報国芸術会」では指導的立場にあった。

戦後は平和、自由、宗教をモチーフとする。1958年、文化勲章文化功労者。1953年以降井の頭公園のアトリエで制作した彫刻を中心に、井の頭自然文化園彫刻館に500点以上が展示されている。

「長崎平和祈念像」が代表作。102歳という長寿であった。74歳で文化功労者文化勲章を受賞しているが、それから30年近くの人生があった。この間、島原市名誉市民、日展名誉会長、南有馬町名誉市民、東京都名誉市民、長崎県名誉県民と様々な名誉を受けている。東京都以外は、みな「初」であったことも凄みを感じさせる。これほど「名誉」のついた肩書きの人も珍しい。業績もさることながら、長寿のなせる技だろう。日本彫刻界の北村西望賞も創設されている。

「何度負けてもいい、のんきにじっくりとやれば必ず勝つ日がきます」。最後は、こういう人が遠くまで行くのではないか」

「清い心でやらないと、いいものはできない」

「わたしは天才ではないから、人より五倍も十倍もかかるのです。いい仕事をするには長生きをしなければならない」

私は2021年に片倉城址公園を訪問した。それは、北村西望を記念した彫刻公園だった。展示されていた彫刻は自刻像だ。北村西望は、武蔵野の自然、特に緑豊かな八王子の自然をこよなく愛した人であった。公園の説明は、以下だった。

昭和50年代半ば、「市内の街頭や公園に彫刻を」と ”彫刻のある街づくり”が進められた際、日本彫刻協会主催の「日彫展」に設けられた ”北村西望賞” 受賞作品を野外展示する「彫刻公園構想」が進められました。彫刻家・北村西望が本公園を非常に気に入り、展示場所として自ら選定されました。昭和57年の除幕式では「彫刻は三千年も保ち、年代に負けない。三千年も大事にしてもらえることはありがたい」と喜びを語ったそうです。公園内には計19体の彫刻があり、そのうち『浦島一長寿の舞』が西望の作品です。

北村西望は自分は天才ではないと自覚していた。だから他人が5年でできることを10年かけてもやる、という決意で仕事に立ち向かっていったのである。

自分はうさぎではない、自分は亀である、と自覚する人はいる。しかし、自分は動いているかわからないような、あのかたつむりになぞらえる人は聞かない。ここに北村西望のすばらしい事績の秘密がある。