深呼吸ゼミ「梅棹忠夫『知的生産の技術』を読む」の第1回目を開催。

深呼吸ゼミ「梅棹忠夫『知的生産の技術』を読む」の第1回目を開催。

7人が参加。1時間半。

準備してきた参加者も多く、素晴らしい出発となりました。

以下、参加メンバーと都築さんの図解資料。

 

以下、参加者の学びから。

  • 本日(27日)、深呼吸学部梅棹ゼミ「いま、『知的生産の技術』を読みなおす」第1回が終わりました。半世紀以上も前に出た本で、デバイスはたしかに比較にならないほど進歩を遂げていますが、「よみ、かんがえ、かく」という基本的な知的ないとなみについて書かれていることは現在でも多くのことを教えられます。久恒先生が「読むたびに新しい発見がある。」とおっしゃっていましたが、まさにそういう本だと実感しました。第1回目で、そういった手応えを感じました。本日は「はじめに」の20頁でしたが、この20頁の中に多くのことが凝縮されています。私が「まえがき」を含めて4枚の図解にしてみました。「まえがき」の中にもこの本が生まれた経緯や、「知的生産の技術」という題名の由来、「知的生産」という言葉のもつ意味や著者の願いについて書かれています。「はじめに」の冒頭で「学校はおしえすぎる」「知識はおしえるけど、知識の獲得のしかたは教えない」という言葉が出てきますが、まさに現代にもつながる課題です。 研究者と呼ばれる人たちが技術を嫌い、整理法も知らないのでその結果情報はわけのわからぬ紙きれの山になり結局ごく狭い部分以外は全部切り捨ててしまう、ということも語られています。そして、「はじめに」の後半は情報産業の時代にあってはすべての人々が知的生産をになうことが必要となる、と述べられています。表記についても、あえて漢語を少なく、ひらがなで表している言葉が多いのに気付きました。著者なりの法則があるようですが、それを見いだせないでいます。結果として、非常に読みやすく親しみやすい文章になっています。久恒先生は、「いかによみ、いかにかんがえ、いかにかくか」と漢語や専門用語を使わずひらがなで表し、しかも「いかにかんがえるか」が最も大切、とまとめられました。私たちは、単に「知的生産の技術」を理解するだけにとどめず、自分ごととしてとらえ、現代の生活にいかに活かしていくかという読み方をしていきたいと思います。なお、次回は1月12日(木)の夜8時から、「1 発見の手帳」「2 ノートからカードへ」を題材に学びを深めたいと思います。
  • 都築さま みなさま、本日は梅棹忠夫ゼミ「いま、『知的生産の技術』を読みなおす」に参加させて頂き、ありがとうございました。第1回目ということで、「はじめに」の部分からスタートしましたが、これだけでも興味深い内容でした。「はじめに」の中で、特に印象に残ったのは、学校は「知識はおしえるけど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれない」というところ。確かに、「知識の獲得のしかた」が身につけられると、興味の対象もどんどん広がり、厚みも増してくるように思いました。また「知的生産」とは「頭を働かせて、何かあたらしいことがら(情報)を、ひとにわかるかたちで提出すること」とありましたが、久恒先生の解説で、 「知的生産」とは何か、ということの理解が深まりました。 例えば、 「考える」ことが一番大事、 順番は「読む→考える→書く」の順、「考える」とは「材料を並べて関係を考えること=図解」  というところはスッキリと整理できました。また、「ひらがな」を多く正しく使うことも、分かりやすく伝える技術の一つであることが分かりました。参加者のみなさんが、ご自身の仕事と照らし合わせて「知的生産の技術」を読んでおられるところも興味深く伺ったところです。第二回目も楽しみにしています。
  • みなさま、第一回梅棹忠夫ゼミ「いま、『知的生産の技術』を読みなおす」に参加させていただきありがとうございました。はじめのタイトルの「はじめに」という箇所だけでもずいぶん学ぶ点が多かったです。また、梅棹ゼミに参加された方の様々な視点から知的生産の技術についての感想を知ることができ良かったです。都築さんの図解による説明がわかりやすく、内容を整理することができ理解が深まりました。 仁上さんの言われるように知的生産の技術の本の内容が図書館の業務に似ているという説明も確かにそう思いました。図書館の本の分類など整理や探すことが、情報を取り扱う点で似てくるのではないかと思いました。片岡さんの説明された教育の分野においても知的生産の技術や梅棹先生の考えとても役立つこともわかりました。私は、37年ぶりにこの本をひさしぶりに手にしましたが、令和の時代にも役に立つことがあったり、新たに発見することがあり、とても新鮮気持ちになりました。皆さんと感想や意見を交換することも楽しかったです。私がこの本を読んで特に印象に残っていることは、梅棹先生の文体です。ひらがなが多く、漢字ばかりでなく、ひらがなと漢字の量のバランスが良く、とても読みやすいです。どの文字を漢字にして、どの文字をひらがなにしているのかはわからないが、そこに大事なこだわりを感じました。久恒先生によると法則があるそうです。個人的な考えですが、梅棹先生は、わかりやすく、伝えやすくするために、あえてひらがなを多くしているのではないかと思いました。日本語の響きを大切にし、民俗学的な要素も含まれているのではないかと感じました。この本で、梅棹先生が「知的生産の技術についてかんじんな点は、それについていろいろかんがえてみること、それを実行してみること。たえざる自己変革と自己訓練が必要なのである。」と述べていますが、かんがえるということを大切にして毎日を過ごしていきたいと思います。次回も楽しみにしています。ありがとうございました

以下、私の図メモ。

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電話

・JAL同期の生田康夫君。彼の句集『鍵穴の緑』について。1月に久しぶりに会う。

・高校同期の松田君。川柳談義。同級生の消息。

・知研岡山の伊藤さん。統合医療プロジェクトの現場報告。

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「名言との対話」12月28日。浅沼稲次郎選挙のさいは国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占むると――

浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう、旧字体:淺沼 稻次郞、1898年明治31年12月27日]- 1960年昭和35年10月12日)は、日本政治家

東京都三宅島出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校海軍兵学校をそれぞれ複数回受験し、いずれも不合格になった。早稲田大学予科に入学。雄弁会、相撲部(副主将)、漕艇部。社会運動に入り、右翼から暴行を受けたり、監獄に入れられたりする。1923年政治経済学部を卒業し社会主義運動に身を投じる。

農民労働党労働農民党日本労働党社会大衆党の参加する。国家社会主義路線に賛成し、戦争を支持する。1936年、衆議院議員選挙初当選。

1945年、日本社会党ができ、その組織部長となる。1947年、書記長。1951年のサンフランシスコ平和条約では講和条約賛成・安保条約反対の立場をとった。1955年の社会党再統一でも書記長となった。1960年、鈴木茂三郎の後を受けて委員長に就任する。安保反対闘争を戦い、岸内閣を退陣に追い込む。

1960年10月12日、日比谷公会堂で行われた自民・社会・民主の3党首演説会で、浅沼は演説中に17歳の右翼少年・山口二矢に左わき腹、左胸を深く刺されて、その日のうちに非業の死を遂げる。享年61。

大隈重信にほめられた体格であり、人が驚く大食漢であった。恐妻家、愛犬家、としても有名。この人は綽名が多いのが特徴である。「人間機関車」「まあまあ居士」「万年書記長」。血の気が多く、エネルギーにあふれた、しかしょ粘り強い、魅力的な人物であったことがわかる。故郷の三宅島の公園と社民党本部に銅像が建っている。

浅沼稲次郎社会党党首時代に、演説会で刺されて亡くなった。この情景は、当時小学生だった私もテレビの映像で目撃しており、この光景と世間の騒ぎを覚えている。

演説途中でテロにあう様子が残されている。またその時の映像もみてみた。

「、、、諸君、議会政治で重大なことは警職法、新安保条約の重大な案件が選挙のさいには国民の信を問わない、そのときには何も主張しないで、一たび選挙で多数をとったら、政権についたら、選挙のとき公約しないことを平気で多数の力で押しつけようというところに、大きな課題があるといわなければならぬと思うのであります。(拍手。場内騒然)

〈司会〉会場が大へんそうぞうしゅうございまして、お話がききたい方の耳に届かないと思います。だいたいこの会場の最前列には、新聞社の関係の方が取材においでになっているわけですけれども、これは取材の余地がないほどそうぞうしゅうございますので、このさい静粛にお話をうかがいまして、このあと進めたいと思います。(拍手)それではお待たせいたしました、どうぞ――

(浅沼委員長ふたたび)「選挙のさいは国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占むると――」(このとき暴漢がかけ上がり、浅沼委員長を刺す。場内騒然)。この後、山口二矢に刺されたのである。
〈以下は浅沼委員長がつづけて語るべくして語らなかった、この演説の最終部分にあたるものの原案である〉

――「どんな無茶なことでも国会の多数にものをいわせて押し通すというのでは、いったい何のために選挙をやり、何のために国会があるのか、わかりません。これでは多数派の政党がみずから議会政治の墓穴を掘ることになります。」

10月18日には衆院本会議で追悼演説会が催された。池田勇人首相は、空席を指し、浅沼を「好敵手」と評価し、テロを許さないと、心に残る名演説を行い、その死を悼んだ。政治家がテロで亡くなったときに、反対党のライバルが弔辞を読むという慣例があり、安倍首相の国葬の野田元首相の追悼演説もその慣例に沿っているのである。

選挙のさいは国民に評判の悪いものは全部捨てておいて、選挙で多数を占むると――」。浅沼稲次郎の最後の演説と、演説草稿をよむと、今も政権与党の姿勢は変わっていないと感じてしまう。国会の機能が低下し、与党がみずから議会政治の墓穴を掘ることになる、という浅沼の主張は、今なお生きている。