新刊『戒語川柳 1』を発刊しました。ーー「ユニクロと スシローニトリ 衣食住」

2022年10月から「1日7句」を目標に川柳を詠むことにしました。

そのうちの「まあまあ」と思われる句を108(煩悩と同じ数)ほど選んで小冊子にすることができました。アマゾンで今日頼んで、明日の29日に自宅に到着します。

『戒語川柳 1』となっており、「2」「3」も準備中です。

108のうちの代表作は、「ユニクロと スシローニトリ 衣食住」で、表紙に掲げました。「禿頭と 白髪の夏 同窓会」「多様性 生物以上の人間性」「会社人 卒業やっと 社会人」「結界の 中はそれなり コロナ紀も」「地図アプリ 方向オンチ まだ迷う」「品格へ 年季を積んで いぶし銀」、、、。

戒語川柳 1

戒語川柳 1

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「まえがき」:「川柳」については、学んだことはありません。心情を詠む短歌、風景を詠む俳句ではなく、人の世を詠もうとする川柳に手を染めようと考えたのは、2022年10月です。先生に就かずに、「一人一党」でトライしているうちに、句がたまってきました。その傾向をながめてみると、ほとんどが自らを戒める言葉でした。そこで、私の川柳を「戒語川柳」と名付けてみました。その第一弾がこの小さな冊子です。

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本年最後の「幸福塾」は、1年を振り返る忘年会です。20時からワインやビールなど酒を飲みながらの「回顧と展望」の時間となりました。

以下、塾生の1年間の学びです。

  • 久恒先生、みなさん、本日もありがとうございました。今回は今年最後の幸福塾ということで、1年の総括と忘年会となりました。「幸福について何回かやってみましょう。」ということで始まって以来、まさかの1年。いろんな切り口で「幸福」についてお話しいただきましたが、そのたびに久恒先生が持っておられる情報量の多さと、それを自在に活用することができることに驚きました。「見ただけ、読んだだけで終わってはダメ。書いて残していくことが大事。」「少しずつでもためていくと本にして残すこともできる。」とのこと。久恒先生が今月出版された「戒語川柳1」がまさにその実例です。 また、「公人」「私人」「個人」でいろんな人の実例をお聞きし、実行し続けることがいかに大切かを改めて知り、自分も、何かアウトプットできるものはないか、またはこれから始めるには何がいいかを探したくなりました。この1年は学びが多く、あっという間でしたが、来年は今年学んだことを一つでも実行して、そういった学びの活用が習慣化できればと思います。久恒先生、みなさま、来年も引き続きよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日の幸福塾、冒頭久恒先生からは新刊相成った「図解コミュニケーション全集5」「戒語川柳1」を紹介頂きました。アマゾンKDPを駆使し編集にあたられた近藤さんの奮闘ぶり、川柳本は既にVol.2 & 3  が既に仕込進行中である事、「吐鳳」と号された由来などの近況を楽しく拝聴しました。一方メインテーマは「ことし、どうだったか?」と題して、塾生夫々の1年間を振り返り語り合うという忘年会形式で、ひと時を過ごしました。結果、①オンラインセミナで知り合った方々とのリアル対面果たした、②毎週の感想文に鍛えられ「モノを書く習慣」が付いた、③心境が一転し何でも発言できるようになった、等のポジティブなお話を伺う事が出来、久恒先生からは「学んだことをしっかり書き留める事が大事!、結果長文結構」とのアドバイスを頂きました。思えば当方も毎週悪戦苦闘の末深夜にアップロードするクチなので、非常に勇気づけられました。また、当方からは今年のふり返りとして新年度以降たちあがった怒涛の社業との対峙(大残業!)の為、暫くのあいだ塾へ参加できなかった事を取上げました。図解塾・幸福塾の機会を自らの都合で放棄せざるを得ず大変残念に思ったのですが、せめて自分の身の回りでの「気付き」についてまとめて、皆様と共有してみよう思ったのが【動機】で、休日を利用して制作。これに意外な程の【学び】の手ごたえを感じ【習慣化】化。結局年末迄の製作数は10件余りを数える迄に至りました。併せて今年幸福塾で習った「倖せの構造」テンプレートに対象人物を当てはめ、人物像をより多角的に表現したり、対象人物の事柄のみならず当時の関連出来事を併せて織り込んだ年表を付ける事で、よりしみじみと背景理解が深まる様工夫する事により、成果物の資料性を引き上げる事ができ、これらが自分にとって大きな学び(怪我の功名)となりました。今後も積極的に製作を進めていきたいと思います。(次号は12/31「未来フェス」にてお目に掛ける事ができるか…鋭意製作中)有難うございました。
  • 本日もありがとうございました。今日は1年間の総括&忘年会ということで私はビールを飲みながら参加していました。終わり頃には顔が照明のせいではなく赤くなっていました。「幸福塾」ですが、アラン、ヒルティ、ラッセルの幸福論から始まって、古今東西のいろいろな人の幸福論を学びました。それも非常によかったですが、後半になると、久恒先生の膨大な人物データベースから例えば「美術館を建てた偉人」など毎回ユニークな、様々な切り口で抽出された人々の生き様が紹介されて、次はどんな人が紹介されるのかとわくわくしていました。塾生からの幸福に関する報告は、正直、直前になって探すことも多く浅いものになってしまったことは反省します。「幸福塾」に限らず、知研関係全体について今年を振り返ると、次のようにいろいろなことがありました。(1)「知研・読書会」を7月から始めた。 (2)つい最近だが深呼吸学部の中で梅棹ゼミ「いま、『知的生産の技術』を読みなおす」を始めた。(3)「知研フォーラム」の10月の定例会で、図解塾で学んだ梅棹忠夫「情報の文明学」を現在大きく変わりつつある高校教育と結び付けた内容で講演を行った。(4)知研の小野さんの勧めで、共同執筆による自分史的な本を書くことができた。(5)図解塾第3・4期の記録を本にまとめる作業が長い間滞ってしまった。申し訳ありません。
  • 久恒先生、みなさま、本日は幸福塾ありがとうございました。今日は幸福塾で学んだことをもとに1年間の総括ということで、忘年会を兼ねた振り返りの時間となり、楽しく過ごさせて頂きました。私の場合、幸福塾・図解塾と毎週水曜日に参加させて頂きちょうど1年超となりましたが、毎回の感想文を何とか続けてこられたことが一番の成果でした。受講したあとに書くのは、はじめかなりきつく感じましたが、何とか習慣にすることができて良かったと思っています。自分ひとりではなかなか続けられないことでした。「幸福塾」では世界三大幸福論から始まり、「倖せの構造」や「私人」「公人」「個人」別に「幸福」を俯瞰してきましたが、それぞれに「幸福論」があることと、共通する要素も見えてきて、とても面白く感じました。また幸福塾をきっかけとして美術館や記念館にも興味が湧くようになり、旅行先での楽しみが増えたことも大きいです。来年も 幸福塾・図解塾 を中心に参加していきたいと思いますので、引き続き宜しくお願い致します。
  • 遅れましたが、幸福塾の忘年会に参加できたことに感謝申し上げます。今日が仕事納めで、仕事がなかなか終わらず、帰宅が遅くなってしまいました。一年参加して感じたのは「あきらめてはいけない」ことです。歳を取ったからできないというのは、言い訳でしかないと、強く思いました。お年を召してから始めたことで、大成をなした方が結構いらっしゃることに驚きました。 生きている限り、「今この瞬間」があるのだと気付かされました。そして、幸福は結果でなくプロセスにあることにも気づかされました。日々の積み重ねが、結果として自分を取り巻く世界を変えていくのだと。参加しているうちになんだか楽しくなってきました。来年もよろしくお願いします😊
  • 本日もありがとうございました。この一年、幸福塾に参加させていただき、いろいろな方の生き方、考え方、生活を聞いて、みなさまざまだけれど、続けること記録が大事なことを再確認いたしました。続けると自由になる感覚は、特に印象に残り、これが幸福と感じることに近づいていくことなのではないかと思いました。また、みなさんのお話も面白かったです。それではみなさま良いお年をお過ごしください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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「名言との対話」12月28日。畠山一清「何事も熱意と誠心をもって人に接すれば
相手に通じないことはない」

畠山 一清(はたけやま いっせい、1881年明治14年)12月28日 - 1971年昭和46年)11月17日)は、日本実業家機械工学者。株式会社荏原製作所創立者。享年91。

石川県金沢市出身。東京帝大機械工学科を卒業。1912年の31歳で恩師の井口在屋と共同でゐのくち式機械事務所を創業した。1920年にはポンプ販売の事業を発展させて荏原製作所を設立した。発明家であり、渦巻ポンプ、発電用車、送風機、水中モーターポンプなど数十種の製品を世に送り出した。1946年には勅撰で貴族院議員に選ばれている。50余年の長きにわたり社長を続けた。日本発明協会の会長をつとめ、恩賜発明賞は「畠山一清賞」と呼ばれている。

荏原製作所は、従業員は1万7千人。売上高は5000億円を超える大企業に育っている。業績も好調で、2021年にも過去最高益をたたきだしている。

畠山一清は、即翁の号を持つ数奇者としても有名である。鈍翁など財界人との交流もあった。茶器や能の道具などを収集し、港区に「畠山記念館」を残した。2010年にこの記念館を訪問した。

高輪台にある旧・参議寺島宗則邸は、元々薩摩島津家の所有であった。庭が素晴らしく亀岡十勝といわれており、その詩碑もある。その寺島邸は荏原製作所を創業した畠山一清・即翁の屋敷となった。記念館の一階には、「畠山即翁寿像」という楠材の一木造りの木彫があり、「平櫛田中 刀」との銘があった。
即翁は茶道具を中心とした名品を集めた。千利休作の「茶杓 銘 落曇(おちぐもり)」、信長・秀吉時代に「一国一城に匹敵するとされた唐物方衛茶入 銘 日野」、割高台茶碗(古田織部が所持)、そして黄瀬戸、黒織部、志野茶碗、楽長次郎作の「灰器 銘 大笑」などが目についた。
この庭園には6つの茶室があるが、この日は茶会があるようで、和服姿の女性達がたくさん庭園を歩いていた。

1960年委設立された荏原畠山記念文化財団は、科学技術や教育、文化芸術などの分野の援助を行っている。今日も日本機械学会発明協会などの団体や、石川県の学生などに援助している。

「われわれがこの世の中に生活していくためには自ら大変な消費をする。その消費を償ってなおかつプラスのものを後世に残していかなければならない」。では、畠山一清は、何を残したか。「世界に追いつき、世界を追いこしていこう」という目標をもって、荏原製作所を残した。また、即翁として畠山記念館に代表される文化事業も残している。

その推進力は、与えられた仕事をただこなすのではなく、自ら創意工夫する熱意で取り組み、誠心誠意これをやり遂げる心をもって仕事をすること。そして、何事も熱意と誠心をもって人に接すれば相手に通じないことはない」とする「熱意と誠心」という姿勢だったのである。