1月の知研セミナー:橘川幸夫さんの「個を活かす参加型社会が始まっている!」。

知研セミナーを開催。ゲスト:橘川幸夫「個を活かす 参加型社会が始まっている!」。17名が参加(最近のセミナーでは最多)。

以下、キーワード。

  • 「企画書」「生意気の構造」。林雄二郎。森を見る会。逆定年制。「情報化社会」。社会的ソフトウェア。新しい生き方。情報的人間。体内に「社会」を持った人間。浮世系と浮世離れ系。ファンクショナル・コミュニティ。参加型社会。知恵と情報。下から内から一人から。フリマとコミケとロックフェス(70年代)、文学フリマ(90年代)、未来フェス(00年代)、講義フリマ、スーパーマン講師セミナー、、、。蜃気楼大学。クラスDo。AIのべりすと、、、。

以下、参加者の学び。

  • 1月の知研セミナーが26日(木)の20:00~21:30に行われました。講師は、「参加型社会学会」を立ち上げられる橘川幸夫さん。橘川さんは1970年代から参加型社会を提唱し本もすでにその頃から出されていました。今日はその頃から現在に至るまでの話、そしてこれからの構想についてお話をうかがうことができました。たいへん興味深かったのは、今日の司会だった久恒さんと橘川さんの若い時の出会いと今日に至るまでのこと、また、橘川さんが林雄二郎氏から大きな影響を受けてきたことでした。深呼吸学部で「情報化社会」ゼミがあったのは、なるほどそういう経緯があったのかと納得できました(発表会にお誘いを受けたのですが他の用事と重なって参加できませんでした)。後半の、参加型社会学会の構想は、大いに共感できます。「講師フリマ」などは特に興味を感じました。つい、「何か自分にも出品できるものはないかな。」などと思ったりもしました。コロナ禍の3年間で、時間・空間を超えたオンラインの世界のよさを味わい、一方では久しぶりに対面で出会ったときの情報量の多さや豊かさを再確認するこの頃です。 参加型社会への参加、これから大いに期待しています。どうもありがとうございました。
  • 2023年は未来フエス  に参加して橘川幸夫氏の初講義で迎えた。ゆく年くる年の番組を見ない新しい新年の迎え方でした。久恒啓一さんの書籍を以前から読んでいましたけれど現在は「図解コミュニケーション全集」6展開編3ライフデザイン(人生戦略)を読書中で今後の人生戦略を考えているところです。逆算的に人生を考える歳になりすばらしい人生だったと後半の人生を言えるように終わりたいと思っています。人物記念館の旅を意識的に続けて学びたい。橘川幸夫さんの紹介されている世界の「社会的ソフトウエア」とはどんなことなのか、法律とか貨幣のない自律した個人の世界の想像が出来ません。少しづつ学びます。林雄二郎氏の本は読んでみたいと思います。
  • 橘川さん、刺激的な時間をありがとうございました。林雄二郎さんを初めて知りました。この様な素晴らしい人を知れたので、もう少し林さんの人なりを知りたくなりました。 また今後の情報社会を目指した行動を歩んでいきます。2月18日の蜃気楼大学が楽しみになりました。いろいろな人をリアルに触れて、自分の感性を磨いていきたいです。 本日は、未来に対して明るい光が見えてきました。ありがとうございました。
  • 橘川先生の「個を活かす参加型社会」のお話しをお聞きし、感銘を受けると共に、多くの新しい気づきが有りました。宇宙、地球、生物と言う長い歴史の中で、人類を俯瞰し、今後の人類が目指すべき方向として、社会的ソフトウエアと言う概念を考えておられる事を教えて頂きました。特に生物が海から陸に上がった時に、体内に海を内包した。そして、今後の情報社会では、道徳や倫理観という自己規律を同様に内部に内包すべきという視点は素晴らしいと思いました。同時に、人類は、外部に法律や仕組みが無くても、自律的に自己を制御出来るのか疑問を覚えました。人間に対する期待と希望をこめての橘川先生のチャレンジだろうと感じました。本日は貴重なご講演、有り難う御座いました。
  • 久恒さん、場を開いてくれてありがとうございます。 そして集まった皆さんの年代や性別や経験などは私にとってはある意味異種。 声を聞かせていただけたことで、どんな場所の中で、何を見て、感じて、体験してにしてきたのか、そして今をどう生きていこうとしているのかなどが想像でき、興味深い時間となりました。 ありがとうございました。 橘川さんのお話が久しぶりに聞けて、嬉しかったです。 何度聞いても新鮮で、響きます。 一番印象に残ったのは、 「自分の内側にも海を内包している」なんと素敵な表現だろうと、感動しました。 今まで生きてきた現代の中にも、確かに手にしてきたことや満たしてきたことがいくつもあり、それを海と表現しているのかなと想像しました。 その海を手放すのではなく、海に感謝すること。その海の中で引き裂かれるような残念な部分もあったと見ていくこと、そのプロセスが次への希望の種だと思いました。 今となっては必要なくなったことでも、確かにその時代は必要だったし、手にしてきたことに喜んだものもあった。そのことを握りしめ、  人間が根源的に持っている魂の声を思う出していく、自分がその声を聞くことができる そこに次の世界を想像しました。 異種大歓迎。多様性や生きる場所が違うからこそ、それぞれの場所で力が発揮される、仲間との一体感を感じながら 生きることにワクワクしました。 (ちょうど、このあたりを今、仕事していましたので、心強く受け取らせていただきました😊) 今、橘川さんが書いている本は、きっといろんな魂の根源が書かせてくれる文章なのだと思います。いろんなシーンの中に確かにあったものがどのように表現されるのかも興味があります。 楽しみにしていまーす! また時間が合う時、参加させてください♡ ありがと〜 たくさん遊ぼうと思いました。 今年は、橘川さんに 会いにいきます。 みなちゃんの感想でした。(みなちゃん)
  • 知研セミナー1月のゲスト講師橘川さんの「個を生かす参加型社会が始まっている」のお話をお聞きしました。「人類と社会の変遷」「私たち人は、今、どういう地点にいるのか」というテーマで人類と社会の流れを橘川さんからわかりやすく説明を受けました。特に印象に残った点は、「社会的ソフトウエア」についてです。次の時代である情報化社会の時代になると自分の中に法律と倫理を持つことが必要になる。社会の中での約束事や社会に参加するといった社会的人間から情報的個人へと時代が移ろうとしている。正解を社会に求めていた時代から、自分で「考える」ことがより重要な時代になると思います。情報化社会へと移ることによって恩恵を受けることもあるが、様々な社会課題や個人的な悩みも増えるかもしれない。そういったときに、社会に答えを求めたら解決できることばかりでなく、自分の中に海である「社会」を持ち、自分で「考える」ということを日頃からしておかなければ情報化時代を生きることができない時代が来つつあるように思います。今回学んだことは大変参考になり、学んだことを日々の生活で実践したいと思いました。橘川さんありがとうございました。次回の知研を楽しみにしております。
  • 2023年最初の知研セミナー、終了いたしました。ゲスト講師の橘川さん、ありがとうございました。「林リポート」で著名な林雄二郎氏との出会いから、現代にも通づる林氏の「年金制度」提案を通じ、情報化社会時代を迎えるに当たり「社会的ソフトウェア」の必要性を説いた林氏の概念を引き継いだことを皮切りに、本論へ入っていきました。 人類の進化の系譜から言語による体験の伝達が「文化」となり、共同体の発生、村から都市、国家という共同体が生み出されたという、人類史の敷衍に始まり、その流れの中で人間が社会的生命としての特殊性を獲得し、現在、情報という新たな要素を得て、どのように変わってくるのか、という見解とともに、人間は体内に「海」を持ったように、「社会」を体内に持つことこそが情報化することと仮説立て、その上で、参加型社会とは、「社会」を内包した個々人が「情報化」することにより、完全に自律した個人同士のコミュニティが発生していくこと結論付けられました。そういったコンセプトのもと、それを具体化した試みとしての「蜃気楼大学(ただ1日だけで霧消するイベントという意味)」を来る2月18日(土)に開催するアナウンスでセミナーは終了しました。蜃気楼大学は『講義フリマ』という位置づけで、そのコンセプトに賛同した日本全国からのゲスト講師が集まるイベントです。ゲストもさりながら、非常に面白そうな内容であり、NPO法人『知的生産の技術研究会』の趣旨にも合致していると考えられました。蜃気楼大学については、引き続きこの「知的生産のひろば」でも案内できればと考えています。橘川さん、お忙しい中、貴重なお話と興味深いイベントのご案内をありがとうございました。

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19時:知研幹部会:蜃気楼大学。司法書士。知研読書会。4月以降のゲストの人選。

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「名言との対話」7月29日。重光葵願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを 」

重光 葵(しげみつ まもる、1887年明治20年7月29日 - 1957年昭和32年1月26日)は、第二次世界大戦期の、日本外交官政治家

大分県安岐町出身。第五高等学校から東京帝大法学部を卒業し、外交官となる。1929年上海領事。1931年駐華公使満州事変)。1932年、上海で行われた天長節天皇誕生日)の祝賀式で「式台に並んだ重光葵公使らが"君が代"の斉唱中、爆弾が投げられた。爆発で下半身を強打され、重光は倒れた。右脚がちぎれるように痛い」(豊田穣「孤高の外相 重光葵」)。傷口は大小160幾つあり、非常な精神力で何とか乗り切るが、最終的に片足を切断することになる。

片足を失いながらも、翌年外交官として復帰する。1933年外務次官(46歳・広田外相)。1936年駐ソ大使。1939年駐英大使(日独伊三国同盟の危険性を主張)。1941年駐華大使。1943年外務大臣(東条内閣・小磯内閣。終戦木戸幸一内大臣と話し合う)。1945年外務大臣(東久邇内閣。日本全権としてミズリー号上で降伏調印)。戦犯になる。

1952年改進党総裁。1954年日本民主党副総裁、鳩山内閣副総理・外務大臣。1956年日ソ交渉(不調)、国連加盟総会演説(「日本は東西の架け橋になる」)。1957年死去。

2006年、私はハワイの「戦艦ミズーリ博物館」を訪問した。ミズーリは米国最後の戦艦で、第二次大戦中は太平洋を中心に活動し、硫黄島上陸作戦に参加、沖縄攻撃作戦では海上から艦砲射撃を行った戦艦だ。この戦艦は昭和20年8月29日、東京湾で降伏文書調印式が行われたことで有名だ。マッカーサー元帥率いる連合国に対し、日本側は重光葵全権率いる日本政府の代表団との間での調印式である。ハワイのミズーリ号での降伏文書では、政府代表重光葵と日本皇軍代表梅津美治郎代表のサインを見ることができた。当時、重光は外相、中津出身の梅津は参謀総長だった。この二人とも大分県人である。米戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書に調印した重光は、大分県の誇りになっている。

マッカーサーのサインの後には、米国、中国、英国、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの各代表のサインがみえる。2番目は中国だった。あの戦争は太平洋戦争でもあったが、大東亜戦争でもあったのだ。真珠湾攻撃より10年前の1931年には満州事変が起こっていた。日本は中国にも負けたのだ。

私は2005年には安岐町にある山渓偉人館でその生涯を追うことができた。

2013年、湯河原の別邸が記念館になっていて訪問した。「志四海」(向陽)という額が飾ってあった。四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼす。重光はこの言葉を外交方針としていたのである。 

重光葵『外交回想録』の「序にかえて」の次に「父と母」という文章がある。重光は極貧の中で育ててくれた父母への感謝をつづっている。父は大分県の三浦梅園『贅語』と帆足万里を好んだ漢学の徒であったが、「大いに英語を勉強するがよろしい」と言い聞かせていた。母は子どもの教育を片時も忘れる人ではなかった。「御用とあらば会わなくても心残りはない」が母の最期の言葉だった。重光は中国への赴任時に、「汝らの芝居は世界が舞台ぞと 老いたる父も笑みて送りぬ」という歌を詠んでいる。そのとおり、厳格な父と慈悲深い母の死に目には会えなかった。外交官の宿命である。

重光はベルリン、ロンドン、ポートランド、ベルリン、上海、そして駐ソ連大使、駐英国大使、駐華大使として活躍している。そして東條内閣、小磯内閣、東久邇宮内閣、戦後も鳩山内閣と、4度外務大臣となっている。1911年の外務省入省以来、半世紀近く、太平洋戦争での敗戦前後まで、苦難の外交人生を送ったのである。父母の言葉通りの生涯だった。

戦艦ミズーリ号上での屈辱的な歴史的役割を果たした重光葵は「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを 」と詠んでいる。私は三渓偉人館、湯河原の別荘の記念館、ハワイのミズーリ号記念館、そしていくつかの伝記を読んできて、重光葵の志の高さとそれを実現しようとした生涯の軌跡に感動を覚えている。