『戒語川柳』(かいごせんりゅう)の第3弾「前例が 無いとやる人 やらぬ人」を刊行。

『戒語川柳』の第3弾「前例が 無いとやる人 やらぬ人」を刊行。電子書籍版もあります。

「川柳」については、学んだことはありません。心情を詠む短歌、自然を詠む俳句ではなく、人世を詠もうと川柳に手を染めようと考えたのは、2020年10月です。先生に就かずに、「一人一党」でトライしているうちに、句がたまってきました。その傾向をながめてみると、ほとんどが自らを戒める言葉でした。そこで、私の川柳を「戒語川柳」(かいごせんりゅう)と名づけてみました。その第3弾がこの小さな冊子です。私が撮影した写真を使っています」(はじめに) 

戒語川柳 3

戒語川柳 3

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 来年の手帳をちょっと冒険す

 コロナ禍で 師を失いて 風に立つ

 多難イヤ 前途洋々 なお怖い

 世直しは 無理でもせめて 立て直し

 亜流では ホンモノよりも キケンです

 父の文 豚児愚息と 書かれおり

 本職に 一芸あれば やや余裕

 政治家でなく 政治屋でなく 政治業

 小市民 キャリア中吉 大晩年

 人は人 自分の畑 耕やさん

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10月から始めて1月まで4ヶ月で3冊。それぞれ108句だから、合計324句。

『戒語川柳』シリーズのスタートダッシュも一区切り。

戒語川柳 2

戒語川柳 2

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「名言との対話」1月30日。石井十次「君と僕とは炭素と酸素、あえばいつでも焔となる」

石井 十次(いしい じゅうじ、1865年5月5日慶応元年4月11日) - 1914年大正3年)1月30日)は、明治期の慈善事業家で、岡山孤児院を創設した人物である。「児童福祉の父」。

宮崎県出身。漢学の師は「善悪ともに極端に走る直情径行の典型」と評した。岡山甲種医学校で学び、キリスト教に入信、洗礼を受ける。

1887年、巡礼途中で夫に先立たれた母親から一人の男児を引き取り、孤児教育会を創設する。このことが石井の運命を変えることになった。「医師になる人は大勢いても、児童救済をやる人間は自分しかいない」と、1889年には孤児救済に生涯を捧げることを決意する。1895年、結婚。1898年、大原孫三郎と知り合う。

1892年の濃尾地震、岡山の水害、日露戦争、東北地方の凶作などによる孤児を受け入れ続け、1906年には1200名を超えている。「全ては神の思し召し」とし、猪突猛進した。

1909年、大阪に愛染は死保育所と夜学校、東京に日本橋同情館を設立。1912年、故郷の宮崎県への孤児院の移転が完了。ここでルソー『エミール』の思想を実現するユートピアを目指した。「幼児は遊ばせ、子は学ばせ、青年は働かせる」という「時代教育法」を確立した。石井の教育理念は、「密室主義」「満腹主義」「家族主義」である。職業訓練を兼ねた「事業部」で自立の道を探っている。義援金募集のため「音楽隊」を結成し、台湾、中国、朝鮮、ハワイ、アメリカ、日本各地で公演をしている。1913年、尋常小学校を設立。救済した児童は生涯で3000名を超えている。1914年、死去。享年48。

宮崎の石井記念友愛社の敷地には石井十次を顕彰する石井十次記念館がある。資料館、研修館、方舟館、静養館、大原館の総称である。倉敷でも石十次の資料を見た記憶がある。どこだったか。

2022年にNHKラジオ深夜便で山田火砂子(90歳)のインタビューを聴いた。山田は現役の映画監督だ。全国の小劇場で公開中の映画「われ弱ければ 矢島楫子伝」が話題だった。山田火砂子は、「児童福祉の父」と呼ばれた石井十次を描いた「石井のおとうさんありがとう」は平成17年度日本児童福祉文化賞を受賞している。

生涯の友・倉敷紡績の大原孫三郎は、石井十次の事業を援助し、石井の死後も財団法人石井記念大阪愛染園を設立。保育所、夜学校を引き継ぎ、救済事業研究室(後の法政大学大原社会問題研究所)を付設している。

石井は大原に石井スエを紹介し、結婚させている。長女・友は、画家の児島虎次郎に嫁がせている。「君と僕とは炭素と酸素、あえばいつでも焔となる」と石井は友情を語っている。石井十次賞という賞があり、団体を顕彰している。個人では宮城まり子黒柳徹子の名前がある。

石井十次キリスト教を背景に、「信じて疑ふことなかれ。祈りて倦むことなかれ。為せよ、屈するなかれ。時重なればその事必ず成らん(新川小学校での演説)」の言葉そのままに、猪突猛進、直情径行で、大事業をなした聖人である。その石井を後代に大きな存在としたのは、倉敷紡績社長の大原孫三郎である。大原に妻となった女性を紹介し、娘を大原とタッグを組んで美術館をつくることに貢献した児島虎三郎に嫁がせている。

「君と僕とは炭素と酸素、あえばいつでも焔となる」という言葉そのままに、厚い、そして熱い友情が、石井と大原のそれぞれの事業に貢献したのである。大原孫三郎の社会事業を含む壮大で先進的な事業の経営、そして石井の先進的な児童救済事業は、それぞれ、日本の近代を拓いたのである。