ピンチをどうにか切り抜けた。

今日はピンチだった。「名言との対話」で書くべき対象者が見つからない。2023年は「近代」を生きた人を「命日」で選んでいる。ここでいう近代とは、江戸時代の文化・文政時代から、大東亜戦争で日本が敗北するまでと私は規定している。

今日は誰もいない! さて困った。ただ一人だけ「岩橋武夫」という名前を見つけた。社会事業家で、エスペエランティストとなっている。ヘレン・ケラーを日本に招聘した人。そういえば、2年前に岩橋明子という社会活動家の女性を書いたことがある。その夫が英行といい、その父の名が武夫だった。

そうか、日本ライトハウスという盲人支援の会社の創業者が、岩橋武夫だったのだ。ウィキペディアで岩橋武夫を調べると、経歴は書いているが、それでは情報が足りない。さらに調べていくと、室田保夫「岩橋武夫研究覚書ーーその歩みと業績を中心に」という論文が見つかった。

それを昨夜寝る前に読んでみて、この人のことを書くことに決めた。内容は本日の「名言との対話」に書くことにして、武夫の人生に登場する人物たちに目が開かれる思いがした。

石井十次賀川豊彦西田天香ヘレン・ケラー。寿学文章。エロシェンコ。母の都。秋田雨雀。神近市子。相馬黒光中村つね。妹の静子。息子の英行。ミルトン。ルファス・グレイヴス・マザー夫妻。マッカーサールーズベルト大統領。キリスト教クエーカー派。天声人語。、、

「名言との対話」で取り上げた人物も多い。記念館を訪ねた人では、石井十次賀川豊彦秋田雨雀相馬黒光、中村(つね)がいる。取り上げた人では、ヘレン・ケラー、中村マッカーサールーズベルト。そして画家の中村彝が新宿のアトリエでがロシアからきた青年をモデルにしたのがこの「盲目の詩人」エロシェンコだったことを発見した。また例えばヘレン・ケラーは、エジソン伊沢修二塙保己一につながっている。

それぞれの人物が同時代の人物たちと結び合っているから、壮大な絵巻物語の図が浮かんでくる。岩橋武夫という人物の生涯を追いながら、縁のあった人物を描いていくと、明治の後年から、大正、そして戦後の初めまでの日本と、そこで活動する盲人の支援に努力する人々の動きがわかるだろう。やはり、毎日書いている「名言との対話」は、「日本近現代史の旅」なのだという思いを強くした。続けていきたい。

ーーーーーーーーーー

ヨガ。B面。原稿。川柳。大正12年

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」10月28日。岩橋武夫「何でもよいから生きていてくれ。お前に死なれてはどこに生きがいがあるものか」

岩橋武夫(いわはし たけお、1898年〈明治31年〉3月16日 - 1954年〈昭和29年〉10月28日)は、日本の社会事業家、エスペランティスト

大阪出身。早稲田大学理工学部に入学するが、網膜剥離を発症し失明する。失意から2度の自殺未遂を繰り返した。中退し関西学院大学文学部英文科に入学する。キリスト教の洗礼を受ける。またエスペラントを学ぶ。

大学を卒業し大阪市立盲学校教師となる。この間エジンバラ大学に留学する。帰国後母校の講師となる。日本盲人エスペラント協会を創設する。大阪盲人協会会長に就任。

1934年、アメリカのヘレン・ケラー宅を訪問する。翌年の1935年に点字刊行のライトハウスを設立し館長に就任。

1937年に3重苦の偉人、ヘレン・ケラーの初来日が実現。1948年、日本盲人会連合会を設立し会長に就任。1952年4文字、社会福祉施設協議会を結成し委員長に就任。身体障害者福祉法制定に尽力した。

1917年の大晦日の日、岩田武夫は絶望し自殺の決意を実行に移した。母は「何でもよいから生きていてくれ。お前に死なれてはどこに生きがいがあるものか」とさとし、覚醒した武夫は、翌年の元旦から新しい人生を生きる。武生は点字をマスターし、この方法で世界を獲得することができるという発見をする。

岩橋は一燈園から托鉢に来た女性、矢野きをを妻とする。そして1925年から2年にわたり、夫婦でイギリスのエジンバラ大学に留学する。帰国後に書いた辞典的な著作、『光は闇より』と『母、妹、妻 女性に与ふ』を出版する。10万部を超えるベストセラーとなった。

1934年に渡米し、ヘレン・ケラーと出会う。1936年、世界最初のライトハウス設立者夫妻を招き、大阪でライトハウスの開館式を行った。世界で13番目のライトハウス。建設費は半分近くは岩橋の私財である。

1937年にヘレンケラーの来日が実現する。国賓級の大歓迎であった。ヘレンは3ヶ月半で100回近い講演をした。岩橋は通訳として同伴している。ヘレンは帰国後ルーズベルト大統領に報告し、日米関係が悪化する中、大統領から岩橋へ感謝状が送られている。岩橋は、戦時中には、戦争のために両眼を失った失明軍人の救済と更生のための事業に邁進している。

戦後、ヘレン・ケラーは11年ぶりに来日をした。この時も日本は大歓迎している。岩橋が亡くなった時、1954年に朝日新聞天声人語で岩橋の死を次のように伝えた。「愛盲事業に一生を捧げ、数々の業績を残したライトハウスの主、岩橋武夫の死を一番悲しむ人が、おそらくヘレン・ケラー女史ではあるまいか。人間苦につながり人間愛に固く結びあった。2人の交友は、10年にもわたり、岩橋さんは、心の光としてケラー女史を仰ぎ、女史の2回にわたる来日の橋渡しをしたが、氏が送った金色のカナリアがなくなったとき、女史は可愛いタケオが死んだといって泣いたそうである。」

3ヶ月後ヘレンケラーは75歳で来日し、岩橋の墓前に花束を捧げた。岩橋のこうとくひ徳日には、ヘレンケラーの言葉が刻まれている。その訳語は、「その解き放つ心、日本の盲界に光り輝く、タケオ・イワハシ」だった。

武夫の志を継いだ息子の岩橋英行は、法人名を日本ライトハウスと改め、視覚障害リハビリテーション体系を確立し、1969年には「職業・生活訓練センター」を完成させている。アジアを中心とする盲人の国際交流の推進に努めた英行が59歳で急死し、妻の明子は後を継いで社会福祉法人日本ライトハウス理事長となる。事業発展に尽力するとともに世界各国の視覚障害者福祉の新しい流れを紹介し、わが国の視覚障害関係事業推進に寄与し、視覚障害がある人も、ごく普通に社会に出て行ける道をつくった。

近年では 視覚障害をもって生まれる子どもの数は減っているが、逆に中途失明者や高齢の視覚障害者は増えている。根気と意欲がいるので途中から点字を習得することは難しく、『点字と朗読を学ぼう』で「音声によって手軽に読書が楽しめたり、情報の伝達ができればそれは本当に福音でしょう」と岩橋明子は30年前の1991年に語っている。その後のインターネットの普及や耳で聞くオーディオブックの誕生、ポッドキャストでの音声による情報発信等で随分と視覚障害者には便利な世の中になってきて、「音声によって手軽に読書が楽しめたり、情報の伝達ができればそれは本当に福音でしょう」という盲人たちの夢は実現しつつある。

何代にもわたる先人の努力の積み重ねがあり、さらに新しい技術を加味しながら組織は発展していく。先人たちはその組織を担う人たちの心の中に永遠に生き続ける。目の見えない方・見えにくい人々のための総合福祉施設である 日本ライトハウスは、岩橋武夫が1922年に自宅で点字図書を出版した年を創業の年としており、2022年には創業100年を迎えた。現在では視覚障害リハビリテーション部門、盲導犬訓練所、点字出版部門(点字情報技術センター)、点字図書館部門(情報文化センター)を擁している。

冒頭に掲げた母の言葉が、賀川豊彦が「日本の奇跡」といった岩橋武夫をつくった。まことに母の感化は大きなものがある。今年生誕100周年を迎えた遠藤周作の母もそうだが、こういう賢母たちが新しい時代を産んだといってもよいのだろう。母の研究が必要だ。