東京ステーションギャラリー。天婦羅はちまき。神保町ブックセンター。八木書店で母の著書を発見。

東京ステーションギャラリー佐伯祐三ーー自画像としての風景」展。

自画像を多く描いている。真正面とやや左を向くポーズでこちらを見ている顏の表情は、多感で神経質な感じを抱かせる。

肖像画も描いている。自分の周りの家族や友人がモデルになっているが、才能を感じさせる。代表作の「郵便配達夫」は絶筆である。

パリや下落合の風景は、自画像である。描いた人の眼を感じる、淋しいが力強い絵である。この風景は佐伯自身である。

「人物」「肖像」というテーマは、表現者の最終目的地になるのでないか。人物論、人物画、肖像画、人物写真、名人、名手、評伝、、、。。

佐伯祐三という画家の素質が十分にわかる企画展だった。短い生涯の間に画風も変化し続けているから、この人に時間があったら、とは思わずにはいられない。

佐伯祐三1898年4月28日 - 1928年8月16日)は、大正昭和初期の洋画家。享年30。

大阪府に生まれ。北野中学在学中より油絵を描き始める。大阪の洋画塾で学ぶ。上京し川端洋画学校で藤島武二師事する。1928年、東京美術学校西洋画科に入学。結婚、1924年、卒業。翌年にフランスに渡り、ヴラマンクユトリロの影響を受けパリ下町を描く1926年に帰国。二科賞を受賞、この時期に連作「下落合風景」に取り組む。1927年に再度フランスに渡り、精力的に画業に励む。1928年、「郵便配達夫」を制作。わずか1年でパリで病没。佐伯祐三は30歳という夭折の画科であるが、作品数は多い。1925年は30点ほど、1926年は20点程、1927年は25点ほどある。常に描き続けていたことがわかる。その中で、「郵便配達夫」は代表作といってよいだろう。人は一点の代表作によって記憶される。

「天婦羅はちまき」で昼食。江戸川乱歩が愛した店。創業者は青木寅彦。記念写真には、作家の海音寺潮五郎紀伊国屋書店田辺茂一、俳優の佐野周二らが写っている。それだけあって、値上げ後でも天丼900円、天婦羅定食1000円という安さで、実においしく、かつ量も多い。満足した。この店の味はファンが多いようで、多くの人が並んでいるが、カウンター中心の客はどんどんさばけている。

 

神保町ブックセンターでコーヒー。

 

同道した妻が、古典専門の八木書店で、久恒啓子『万葉集の庶民の歌』(短歌新聞社)を発見! 母の著書が八木書店にあったのは感激。

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「名言との対話」2月1日。山県有朋弱い羊だけが群がっている世の中など嫌だ。虎の寝そべっている野辺を突き進め」

山縣 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日1838年6月14日〉- 大正11年〈1922年2月1日)は、日本政治家。

山口県萩市出身。松下村塾に入門。高杉晋作奇兵隊に参加。正義党を指揮し、俗論党を打破し藩論を倒幕に一変させる。北陸道会津鎮撫総督の参謀。西郷従道と欧州を巡遊。。帰国後、兵部少輔として軍制改革にあたり、陸軍を創設。兵部大輔として新政府の全国兵権を掌握。陸軍兵輔おして徴兵制を推進。陸軍卿として外国に備える軍へ改革。参議を兼任。近衛都督兼参謀本部長として「軍人勅諭」の制定に関わる。内務卿。伯爵。元勲。総理大臣として教育勅語の発布。法相。枢密院議長。日清戦争の司令官。陸相。侯爵。元帥。総理大臣。元老として身を引くが、影響力を保った。日露戦争参謀総長。公爵。枢密院議長。官僚、軍人を組織する山県閥を形成し元老中の元老となった。大勲位。85歳で死去し、葬儀は国葬となった。

以上の経歴をみると、あらゆる栄誉を一身に集めた人だということがわかる。しかも長寿であった。伯爵、侯爵、公爵と登っていく様は見事であり、最後は大勲位という最高の地位に昇りつめている。

本人は「一介の武弁」が口ぐせであったが、数万首を詠んだ和歌、漢詩謡曲、清元、仕舞、書、そして造園など趣味は広かった。

山県は人材の抜擢と面倒見の良さも抜群であった。4人の総理、西周森鴎外も登用されている。人材の発掘と育成に長けていた。伊藤博文と並ぶ人物であり、2人は仲が良かったが、思想は異なるなど好対照であった。

山県には毀誉褒貶がある。私は司馬遼太郎の小説の中で、愚にもつかない形式主義者である山県を知ったため、いい印象を持ってはいなかった。面倒見がいい、正直一方、重厚、何をするにも一生懸命という評価もあるが、悪役、某の人、権力欲が強いという否定的な人も多い。徳富蘇峰のいう「穏健な帝国主義者」あたりが妥当なところだろうか。

原理原則を保持しながら政治的妥協ができるリアリストであり、思慮深く慎重であり、長い軍政、政治の世界で大過なく過ごしたのは大したものである。引退後も小田原の古稀庵に住み、中央の要人たちは小田原詣でをしていた。「小田原の大御所」と呼ばれていた。

佐賀の大隈重信と長州の山県有朋とは1838年の同年に生まれて、奇しくも1922年の同年に亡くなっている。明と暗、陽と陰、饒舌と無言、舌鋒と腕力、人気と不人気、世論と権力、、、、。2月1日は山県の国葬の日である。

大隈の葬儀は国民葬であり30万人が弔問に訪れた。それにひきかえ最後の元勲・山県の葬儀は国葬であったが、大臣さえも欠席する人もあったくらい寂しいものだった。国と葬の間に「民」があるかどうかで、これほど違った。総理経験者という意味では同じだが、大隈は私学の雄・早稲田の初代総長であり、山県は帝国陸軍の創設者であり総帥であった。二人は全く対照的だ。

天才ではなかった山県は、幕末から明治にかけての生命の危険と権力を巡る攻防という疾風怒濤の日々をくぐり抜け、軍事では大村益次郎という天才、政治では大久保利通という天才の後釜になってしまった。山県は彼らの模倣をするしかなかったのではないか。彼らの思想の進化ではなく、彼らの路線の深化に生きるほかはなかったのだろう。それが評判の悪い、息の詰まるような形式主義的世界になっていく。誰もが山県のそのうっとうしい鎧を敬遠したのである。

常に「一介の武弁」であると自称していた山県は、そういった言葉とはうらはらに政治力もあり、原敬の本格的な政党内閣も容認する度量もあった。

庭造りにも造詣が深く、東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである。この古稀庵と椿山荘は私も訪ねている。

 

 

 

山県有朋国葬は寂しいものであったらしい。