「遅咲き偉人伝」の27回目は、白洲正子。
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小野 三千麿(おの みちまろ、1897年(明治30年)5月22日 - 1956年(昭和31年)2月2日)は、日本の野球選手(投手)、新聞記者。
神奈川県出身。神奈川師範学校から慶應義塾大学に進む。1919年には秋の四大学リーグで、法政戦、明治戦と2試合連続でノーヒットノーランを達成している。早稲田の谷口五郎、明治の湯浅禎夫と、「大正三大投手」とされた。小野は「至妙なコントロールを持つ剛球と、懸河の如きドロップ」を持つエースであった。
1921年に大阪毎日新聞社運動部記者となる。1922年に来日した大リーグチームを相手に、三田倶楽部の投手として9対3と完投し、日本人初の「日米野球勝利投手」となった。
その後、大阪毎日新聞の社員で構成する大毎野球団などで活躍した。1927年に毎日新聞が都市対抗野球大会をスタートさせると、小野は新聞記者として活動する。
1949年にプロ野球は8球団から15球団になり、アマチュア選手が引き抜かれるなどピンチに陥った。小野は都市対抗なのだから、予選で涙を飲んだチームから選手を補強できるというア「補強制度」というイデアを出し、成功させている。
1956年に58歳で死去するが、都市対抗野球大会は、大会を盛り上げたチーム、選手、指導者を表彰する「小野賞」を儲けた。アマチュア野球の隆盛に大きな功績があったのである。
「野球殿堂」は、日本の野球の発展に大きく貢献した人々の功績を永久に讃え、顕彰するために1959年に創設された。表彰レリーフ(ブロンズ製胸像額)を、野球殿堂博物館内の殿堂ホールに掲額し、永久にその名誉を讃えている。競技者表彰と特別表彰がある。
1959年の001は正力松太郎「日米野球を成功させ巨人を創設」。安倍磯雄「学生野球の父」。スタルヒン「プロ野球初の300勝投手」。以降、競技者以外では、佐山和夫、小泉信三、小林一三、などの名前も見える。直近の2023年は古関裕而、バース、ラミレスだ。今まで総計215人がこの栄誉に輝いている。
小野は同じく1959年の第1回の特別表彰で、「対大リーグ初の勝利投手」というタイトルで、「慶應義塾、三田倶楽部、大阪毎日野球団の投手として活躍。1922年に大リーガーを迎え、これを破り日本人初の勝利投手となる。後年運動記者として令名を博した」とある。同じく沢村栄治も「初期プロ野球界不滅の大投手」という功績での特別表彰だった。
野球界では、大学対抗などアマチュア野球が主流であった。現在のプロ野球は「職業野球」「商売人野球」とさげすまされていたのである。アマチュア野球の隆盛が、戦後ののプロ野球ブームをもたらしたという意味で、アマチュア野球の果たしてきた功績は大きいものがある。その中心仁物の一人が小野三千麿であった。野球界にも戦前のアマチュア野球の時代の近代化の時代、戦後のプロ野球の現代化の時代があると言えるのではないか。