川柳会の宿題4つーー「出直す」「どんどん」「天使」「デラックス」。

「松戸川柳会」では、「宿題」があり、「二人選三句詠」というのが特色だそうだ。

2月例会には4つの「宿題」が出ている。それぞれ二人の選者が審査する仕組みだ。

宿題は「出直す」「どんどん」「天使」「デラックス」。以下、私の作品。これで出してみようか。

  • 出直す「世直しは 無理でもせめて 立て直し」「仕事人 卒業やっと 家庭人」「小市民 キャリア中吉 大晩年」
  • どんどん「壁なんか やりたいことに あるもんか「不器用な 人が結局 ものをなす」「ギア上げて リスクの限界 越えて見な」
  • 天使「AIは 神か悪魔か 友達か」「珍しい 車内で本読む 乙女みる」「孫娘 ちょっとクールで 魅力あり」
  • デラックス「道楽も まだまだまだだ 極道は」「贅沢は うなぎ・天ぷら・握り鮨」「ふさわしい 器になって 手に栄誉」

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昼食は新宿。ものすごい人出だった。橘川さん、仁上さんと中華。「蜃気楼大学」の先にあるものがみえてきた。

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以下、書きかけ。

「名言との対話」2月12日。森有礼「日本の初期の歴史記録とされている書物は信頼に値するとは到底言えない」

森 有礼(もり ありのり、旧字体森 有禮1847年8月23日弘化4年7月13日) - 1889年明治22年)2月12日)は、日本政治家外交官思想家教育者。

鹿児島市出身。幼少期に五代友厚らの感化を受け洋学への眼を開く。14歳、林子平『開国兵談』に影響されて洋学修業を志す。1865年、薩摩藩は剣の英国留学生としてロンドン大学に入学。ロシア、米国で学ぶ。明治元年1868年に帰国し、次ぎ次ぎに要職に就き国制改革にあたる。1869年、米国勤務を命ぜられ外交活動に従事する一方、日本を知らしめるための著作を発表し、文化外交官として名を成した。帰国後は1873年明六社の設立にかかわり、翌年『明六雑誌』を刊行。1876年、商法講習所を設立。この頃、有名な美人であった広瀬常との契約結婚で話題になった。1880年、駐英公使として条約改正交渉に取り組む。1883年、伊藤博文の信頼を得て、文部省で文政家の道を歩む。1883年、第一次伊藤内閣で初代文部大臣。1884年の諸学校令を公布し近代教育制度の全面改革に着手する。自立的国民の養成が主眼であった。1890年2月11日の憲法発布の当日に、国粋主義者に襲われ、翌日死去。まだ43歳の働き盛りであった。

以上が、初代文部大臣・森有礼の経歴であるが、森は「契約結婚」という、当時の話題をさらった事件の主役として有名になった。

浅原録郎『日々のエッセイ』に「森有礼、広瀬常と小説「美貌の功罪」」というエッセイがある。広瀬常は幕臣の娘で英語も堪能な才色兼備の美人であった。英国の外交官アーネスト・サトウもその美貌について日記に書いている。この29歳と21歳の二人は、男性優位の風潮の残る中で、「契約結婚」を断行する。森有礼には「妻妾論」という論文があり、男女は同権であり、双方に扶養と扶助の権利と義務がある。これが国の基だという趣旨である。東京府知事大久保一翁の面前で、複座諭吉を証人としたこの神前結婚式は耳目をそば立てさせた事件であった。しかしこの二人は離婚する。その原因は、ロンドンでの常の不倫いよって青い目の娘が生まれたという説や、常の実家の不始末をかばうためという説もあるが、真相は分からない。

英語で授業をすべきだという主張のように、当時としては開明すぎるほどの開明派であり、学制改革に命を燃焼させた森有礼は、「日本の初期の歴史記録とされている書物は信頼に値するとは到底言えない」という考えを表明しており、また伊勢神宮への不敬があったとうらみを買って、国粋主義者によって暗殺されてしまった。前途有為な43歳の死であった。

森有礼の諸学校令は、高等教育機関である帝国大学令、教員養成の師範学校、。初等教育の小学校令、中学校令などである。中でも師範教育、つまり教員養成をもっとも重視していた。教育の中に強力な国家目的を貫徹させようとした。その構想は暗殺死によって道半ばに終わったが、人材の育成、つまり教育がもっとも重要な分野であるとした森有礼は、近代国家建設のために大きな貢献をしたのである。