ブログの連続記録は本日で7000日目ーーー何ごとにも歴史がある。

ブログ「今日も生涯の一日なり」の連続記入、本日で7000日に達した。少し感慨がある。何ごとにも歴史がある。ふり返ってみたい。

宮本武蔵の『五輪書』には 「千日の稽古をもって鍛とし、 万日の稽古をもって錬とす」とある。日本刀造りでは鉄を叩き硬さをつくる段階を鍛といい、焼き入れで柔軟性をつけることを錬という。練り(ねり)によって硬さに加えて柔軟性を身につけた強い名刀になる。鍛錬とは千日、万日の稽古を積み上げることなのだ。3年で鍛、30年で錬、という計算になる。

武蔵を尊敬していた空手の大山倍達は、これをもじって「武の道においては千日を初心とし 万日の稽古をもって極となす」としている。このブログ修行の場合、万日の「極」に達するのは9年後の2033年である。淡々と続けていきたい。

 

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「名言との対話」11月28日。広瀬淡窓「鋭きも鈍きも共に捨て難し 錐(きり)と槌(つち)とに使い分けなば」

広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、1782年5月22日( 天明2年4月11日)-  1856年11月28日(安政3年11月1日)は、江戸時代儒学者、教育者、漢詩人

葉室麟『霖雨』(PHP文芸文庫)を読了。天領の豊後日田出身(大分県日田)で、私塾・咸宜園を主宰する広瀬淡窓と家業を継いだ弟・久兵衛をめぐる物語。広瀬兄弟の清冽な生き方を貫こうとする姿を描く。 

淡窓は24歳から50年に及ぶ私塾「咸宜園」での講業で、養子や弟子が引き継ぎ入門者は5千人を超えている。高野長英大村益次郎大楽源太郎長三州、上野彦馬、清浦圭吾、朝吹英二などが出ている。

広瀬淡窓という人物の肉声と生身の姿を垣間見ようとして手に取った小説で、葉室麟
という優れた書き手にも関心があり手に取った。

  • 「淡窓」という号:『中庸』に「君子の道は淡にしてしかも厭わず」とある。淡は君子としての在り様を示す。窓は書斎の意。
  • 咸宜園:『詩経』の「玄鳥篇」に「殷、命を受くること咸宜(ことごとくよろし)し、百禄是何う(これにならう)。「三奪」、年齢・学歴・身分を奪い平等とする。身分の差別無く塾生を受け入れるという名前である。すべての人は使命を背負っており、その生は尊ぶべきものだ。
  • 朝食の前に書に目を通す。もっぱら詩文。少しづつ身のうちに力が充実してくる。生きる希望をもたらすのは詩である。
  • 「鋭きも鈍きもともに捨て難し 錐と槌とに使いわけなば」
  • 「約言」と「迂言」(学校論)
  • 「万善簿」。一日の行動や心事を、義と欲、経と怠に分け、善行を功、悪行を過とする。振り返って正しく行えたと思えば白丸、過ったと感じたら黒丸をつける。
  • わたしは一介の凡愚だ。ただ、焦らずに、歩みを止めることのない凡愚であろうとは思っている。
  • 淡窓のつくった有名な詩。「道(い)うことを休めよ 他郷苦辛多しと  同袍友有り 自ずから相親しむ  柴扉暁に出づれば 霜雪の如し  君は川流を汲め 我は薪を拾わん」

2006年に日田の咸宜園を訪ねた。天領・日田は実家の中津から車で1時間の距離となっていた。昔は2-3時間かかっていたと思う。中津に住む母と一緒に水郷・日田を訪ねた。目的は二つあって、広瀬淡窓の私塾「咸宜園」を訪ねることと、ゆういっちゃん(樋口裕一)のお母さんと会うことだ。3人で久闊を叙した。

豆田町の広瀬資料館は、日田で掛屋を営んだ広瀬家の資料館。淡窓は長男だったが、病弱であった淡窓は弟の久兵衛に家業を譲る。その広瀬家は歴代いい仕事をする。現在の大分県広瀬勝貞知事は現在の当主の弟である。

咸宜園は江戸時代の日本最大の私塾で、全国68カ国のうち66カ国から4168人の塾生が学んだ。高野長英大村益次郎、長三州、上野彦馬、清浦圭吾、朝吹英二などが出ている。「世の中の役に立つ人になれ」という方針のもと、勉強と修養に力を入れた。修養とは自分を高めることである。

奈良本辰也『日本の私塾』と、童門冬二『義塾の原点』(上・下)から、江戸時代の私塾をピックアップしてみた。29ほどある。亀井南瞑・昭陽父子の甘とう館(福岡)。平田実篤の気吹舎(秋田市)。藤田東湖の貴藍舎(茨城県水戸市)。 二宮尊徳の報徳の塾(栃木県二宮市)。大原幽学の回心楼(千葉県旭市)。福沢諭吉慶応義塾(東京都港区)。佐久間象山の洋学塾(東京都中央区)。勝海舟の海軍塾(東京・神戸・長崎)。江川英龍韮山塾(静岡県伊豆の国市)。坂本天山の天山塾(長野県伊那市)。橋本佐内の明道館(福井県福井市)。土井利忠の洋楽館(福井県大野市)。上田作之丞の拠遊館(石川県金沢市)。頼山陽の山紫水明処(京都市)。石田梅岩の心学塾(京都市)。伊藤仁斎の古義堂(京都市)。緒方洪庵適塾大阪市)。中井甃庵の懐徳堂大阪市)。大塩平八郎の洗心洞(大阪市)。森田節斎の節斎塾(奈良県五條市)。中江藤樹の藤樹書院(滋賀県高島市)。 本居宣長の鈴の屋(三重県松阪市)。管茶山の廉塾(黄葉夕陽村捨)(広島県福山市)。月性の清狂草堂(山口県柳井市)。吉田松陰松下村塾山口県萩市)。日柳燕石の呑象楼(香川県琴平町)。帆足万里の西崎精舎(大分県日出市)。 広瀬淡窓の咸宜園(大分県日田市)。 横井小楠の四時軒(熊本市)。 シーボルト鳴滝塾長崎市)。今まで訪ねたところも少しはあるが、改めて「私塾の旅」を試みようか、と空想している。

淡窓には名言は多いが、「鋭きも鈍きも共に捨て難し 錐(きり)と槌(つち)とに使い分けなば」を採りたい。人は鋭い切れ味の錐、鈍い槌のように、それぞれ個性がある。その個性を伸ばし、使い分け、組み合わせて、適材を適所で働かしめる。それが大教育者・広瀬淡窓の志であった。咸宜園で薫陶を受けた塾生たちは幕末から維新にかけて、軍事、政治、学問、実業、写真など、それぞれの分野で活躍している姿は壮観である。

 

参考。

葉室麟『霖雨』(PHP文芸文庫)。奈良本辰也『日本の私塾』。童門冬二『義塾の原点』(上・下)

 

 

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