耳の日:岡本かの子。山本寛斎。高橋源一郎。上野千鶴子。

耳の日

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「名言との対話」2月20日。村山槐多「美しい幸福の神にみ入られて居る俺のおもしろさよ。これから一年の間にきっと東京の宝玉になって見せよ」

村山 槐多(むらやま かいた、1896年明治29年〉9月15日 - 1919年大正8年〉2月20日)は、明治・大正時代の日本洋画家で、詩人作家

愛知県岡崎市出身。槐多という不思議な名前は、母・たまが森鴎外宅に女中奉公をしていたことが縁で、鷗外の命名とされている。槐多はエンジュという木の名前である。延寿に通じることから、中国では「出世の木」「長寿の木」とされ、日本でも「安産の守り神」として信仰されてきた。それが多いという意味だろうから、さすが鴎外だ。

槐多は10代のころから早熟で絵画と詩作に才能を示した。成績優秀な悪童であった。従兄の洋画家・山本鼎は画才に注目し、1914年に上京した槐多を小杉未醒(放菴)び邸内に下宿させた。槐多は高村光太郎の工房にも出入りした。二科展に出品した作品の一つを横山大観が買い取っている。

その後、日本美術院の洋画部を根城に表現主義的な作品を発表しする。絵画では院賞を受賞、そして小説の分野では『魔猿傳』は江戸川乱歩が「わが国初めての本格的スリラー」と称賛している。

1918年に喀血。結核性肺炎であった。翌1919年に流行したスペイン風邪にかかり、生涯を閉じる。わずか22年の短い生涯だった。

ちなみに1918年から1920年にかけて猛威をふるったスペイン風邪は、世界で5000万人以上が死に、日本でも45万人が死んでいる。著名人では、マックス・ヴェーバー社会学者)、クリムト(画家)、そして日本では島村抱月劇作家)、大山捨松大山巌夫人)、辰野金吾(建築家)などがいる。槐多もその一人であった。

油彩画41点(風景画23点)、総作品は150点。自画像は12点。代表作は『尿する裸僧』で、合掌しながら托鉢の器に立小便をする全裸の僧を描いた作品である。がランス(深い茜色)で描いた。

早熟で多感な槐多は、「夭折の画家」として多くの人に強烈な印象を与えている。後に高村光太郎は槐多を詩に詠んでいる。「いつでも一ぱい汗をかいてゐる槐多。五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。強くて悲しい火だるま槐多」と表現している。「自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。」と詠んでいる。この詩は村山槐多という若者をよくあらわしているようだ。

『槐多の歌へる』という題名の村山槐多詩文集を読んだ。

「宿命的に、下へ下へと行く者を、引き上げよう、引き上げようとして下すった小杉さん、鼎さん其の他の知人友人に私は感謝、、」

ゴッホは二十八で死んだ。俺はいくつで死ぬ事やら。ひょっとするともう一箇月のうちにこの世に居なくなるかも知れぬ」

「自分は生長し強大なる人間となりたい。大なる壮麗な世界の所有者となりたい。三十歳までに是非なりたい」

「光輝ある天才の道を創始しよう 自ら自己を軽蔑した汝よ汝は恥じよ 汝はまず汝を天才だと確信しろ」

いくつかの短い小説や、多くの詩を読んでみたが、やはりこの人は天才だと感じることとなった。たった5年ですい星のようにあらわれ、そして去った。自らの天才を信じた村山槐多はわずか22歳5か月という短い、実に短い生涯を生き急いだ人である。

Murayama-priest-1915 - 村山槐多 - Wikipedia | 日本画, 村山, 日本美術