『世界を知る力』対談篇のテーマは「教育」:田中優子と竹中千春。

26日の『世界を知る力』対談篇。テーマは「教育」。相手は法政大学前総長の田中優子立教大学元教授の竹中千春。田中は「江戸」の専門家、竹中は「インド」の研究者。

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寺島:『近世アジア漂流』。唐天竺。2010年に中国に抜かれた。今後10年以内にインドに抜かれる。なぜ江戸か? なぜインドか?

  • 田中:石川淳との出会い(石川淳全集)。『江戸の創造力』。循環型社会。ものをつくることで人を救う、日本化する。
  • 竹中:マハトマ・ガンジーの非暴力との出会い。インドは14億人。平均年齢が20代後半(29.7歳)という若い国。

寺島:『世界はなぜ仲良くできないのか』(竹中)は善意識のかたまり。多摩大生の良心は安定志向、公務員か安定した企業をすすめる。若世代のポテンシャルは感じる。SNS社会でも地頭を鍛えて次元をあげて課題解決力にしていく事が重要。

  • 田中:若者の可能性。ボランティア活動で地域や世界に関心を持ち対象を選んでいく。自分の言葉で話すこと。本の中に在る言葉を探す。「会読」というやり方は、同じ教科書だが一人一人が講義して批判や質問を受ける。自分で消化しなければならない。
  • 竹中:「朝日小学生新聞」の連載を本にした。知識欲、国際感覚、人権感覚は鋭い。「未来はある」という感覚を持っている。100歳まで生きる時代。問題を自分で解いていくという学び方。

寺島:考え込む力。アナログであること。思考の外部化現象。価値や思想。教員も切ない。高校の「歴史総合」は近代史に焦点。意図せざる革命か?

  • 田中:学校、大学のありかた。少数で議論する場をつくる。
  • 竹中:大教室での講義は19世紀型。パンデミックが大きかった。丁寧、じっくり、多くの先生とという流れがエリート校でやっている。二極分化。人はヒューマンコミュニティの中で成長。

寺島:ジェンダー。80万人を割るという少子化固定観念からの脱出。高齢化をコストと考えずに少子化から脱する戦力として活用し、女性の社会参画を後押しする。そういう柔らかい社会システムに知恵を。

  • 田中:女性が下に押し込められた。家庭のイメージの固定化。今の女子学生はみな職業に就こうと考えている。キャリア、人生に不安。選択的別姓の否定というアナクロニズム。大学までの教育の無償化。
  • 竹中:1975年の男女雇用均等法から40年たって今、ここか。後輩たちに申し訳ない。変えられなかった。日本を住みやすい社会に。

「図解コミュニケーション」の有効性(新しい会読)。「未来」への確信(子ども、女性、若者)。「学び方」の革新(参加型)。少子高齢化という「課題解決」策の提示(総合設計力)。キーワードが浮かぶ。「出会い」の重要性を改めて感じる。田中優子石川淳。竹中千春はガンジー

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メルマガの発行。書斎の片づけ。「名言との対話」の3月分の人選。「野田一夫語録」の編集プロセスの考案。知研:司法書士との連絡と印鑑証明の取得。「全集」第7巻のまえがき。1万歩。デメケンミーティング。

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「名言との対話」金子直吉「初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)」

金子 直吉(かねこ なおきち、慶応2年6月13日(1866年7月24日) - 昭和19年(1944年)2月27日)は、日本の実業家。 

高知県出身。10歳から丁稚奉公。質店で働く傍ら、質草の本を貪り読み、独学で経済や中国古典に関する膨大な知識を身につける。1886年、20歳で神戸八大貿易商に数えられる鈴木商店に入る。番頭として経営を切り盛りし、1900年には台湾樟脳の販売権の65%を得るまでになった。「生産こそ最も尊い経済活動」という「工商立国論」をもとに、鉄鋼、造船、石炭、化学、繊維から食品に至るまでの80社を超える生産工場中心の一大コンツェルンを形成した。

『幕末商社考2』(姉崎慶三郎)を読んだ。また「鈴木商店記念館」の記述を読んだ。

「三井三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか、これ鈴木商店全員の理想とするところなり」。そして第一次世界大戦時のロンドンの高畑誠一支店長への打電「BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE.」(金に糸目をつけず、ありたけの鉄と物資を買え)。この判断で鈴木商店は、三井物産を超えて、日本一の総合商社となった。

鈴木商店はある宗旨の本山である。自分はそこの大和尚で、関係会社は末寺であると考えてやってきた。鈴木の宗旨を広めるために(店)に金を積む必要はあるが、自分の懐を肥やすのは盗っ人だ。死んだ後に金(私財)をのこした和尚はくわせものだ」。直吉は「無欲恬淡」で、念頭にあるのは「事業」のみ、私利私欲はなく、終生借家住まいで、私財も残さなかった。

倒産の報告に対してオーナーの鈴木よね「しかたおまへん。わてはあんたが生きていてくれはったらそれでええ」。オーナーの信頼の厚さがよくわかる逸話である。

福沢桃介は「財界のナポレオン」と讃えた。渋沢栄一は「事業家としては天才的だ」と評した。北村徳太郎(鈴木商店佐世保支店長、大蔵大臣)は「金子直吉は大教育者であった。人間形成の土台をよく見て、あいつはこういう風に仕向けろというわけです。えらい教育者であった」。

鈴木商店は無くなったが、高畑誠一らは直吉の精神を継承し、日商をつくり、現在では双日となっている。また1967年に開催された神戸開港百年祭では当時の市長から「あなたは神戸に一大総合商社を育て上げ、今日の港都繁栄はあなたの功績によるところまことに顕著なものがあります」と讃えられた。事業を展開するということは、国を富ますことになる。直吉の功績は国に対しても大きいものがある。

直吉は俳句を趣味としていた。「初夢や太閤秀吉那翁(ナポレオン)」という気宇壮大な句を詠んでいる。学校に行けなかった自分を、農民から太閤にまで出世した秀吉に、また一兵卒から皇帝にまで昇りつめたナポレオンになぞらえて邁進したのだろう。

鈴木直吉という傑物は、日本独特といわれる総合商社を育て、近代日本の成長に大いなる貢献をしたのである。