『原田マハ、アートの達人に会いにいく』ーーアート小説の名手の達人へのインタビュー集。

原田マハ、アートの達人に会いにいく』(新潮社)を読了。毎日気の向くままページを開いて読んでいたら、いつの間にか読み終わっていた。

アート小説の名手の原田マハが、33人のアート界の先達を訪ねて対話した記録集だ。2014年から2023年ま3月までの「芸術新潮」の連載が1冊の本になった。原田マハは1962年生まれだから、50代を費やしたことになる。

原田マハの『楽園のカンヴァス』は、アンリ・ルソーの名作「夢」を巡るミステリー仕立ての素晴らしい小説だった。それ以来、ファンになった。

画家、写真家、美術館長、漫画家、ピアニスト、学者、私人、建築家、コレクターなど、多士済々だ。それぞれの内容はごく短いが、その対談、インタビューで原田マハが得たもの、その総量は大きいと容易に想像できる。43歳で小説家デビューで本人が遅い(遅咲き)という原田マハのアート小説の中に生かされているのだろう。

原田マハ

  • 美術館には常設展を見に行ってほしい。
  • 史実にフィクションを織り交ぜ、歴史上の人物を自分の筆で動かせるのは、本当に面白いです。
  • 名コレクターというのは、ある種のクレイジーさを持っていますよね。

対談相手の発言から。

  • 80点クラスをずらりとそろえるようなコレクターは、ビジネスパーソンとしてもたいしたことはないんですね(大原謙一郎)
  • いいか悪いか。感動を与えるようなものか否か、それだけを基準にすればいい(美輪明宏
  • 源氏物語」で一番深く書かれているのは、人間です(ドナルド・キーン
  • 日本語教育を世界で広めたいなら、漫画とアニメでしょう(池田理代子
  • アメリカの美術館は元々が教育を目的として作られています。、、英語名は「ミュージアム」ではなく、「インスティテュート」です(蓑豊)
  • 世の中で一番崇高なことは良いコミュニティを作る事だと、信じています(福武総一郎)
  • 自分には普通の人にはないような才能があるんだと気付いたのは40歳を過ぎてから(遅咲き)(フジコ・ヘミング
  • 散文の場合はある程度読み込まないと感動できないけど、詩はもしかしあたらたった3行でも共感できるかもしれません(谷川俊太郎
  • 100歳までの人生を全うするのは、身体的体力だけでなく、知的体力も必要です(安藤忠雄
  • 自分の好き嫌いで作品を選ぶコレクターというものに魅かれました(原俊夫)
  • 未踏峰に登りたいと思います(圀府寺司)

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「名言との対話」5月14日。大久保利通「凡そ国家の事は深謀遠慮自然の機に投じて図るにあらざれば成す事能はざるや必せり」

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日1830年9月26日〉- 明治11年〈1878年5月14日)は、日本政治家。

木戸孝允らと版籍奉還,廃藩置県をおこなう。1872年大蔵卿。岩倉遣外使節団副使として外遊。帰国後、西郷隆盛征韓論をしりぞける。内務卿を兼任。明治10年までの佐賀の乱神風連の乱、、西南戦争などを鎮圧した。地租改正をおこない、元老院大審院、地方官会議の設置による立憲制の樹立をめざした。

1879年5月14日東京紀尾井坂で暗殺された。49歳。暗殺の朝、「為政清明」と揮毫している。政治を行うものは清らかでなければならない。これが大久保利通座右の銘であった。

2017年に旧吉田茂邸を訪問した。庭に七賢堂がある。もともとは伊藤博文邸に四賢堂があった。四賢とは、木戸孝允岩倉具視三条実美大久保利通。これに、死後に伊藤博文が加わり、五賢堂となった。五賢堂を吉田邸に移築することになり、新たに西園寺公望を合祀。吉田の死後、佐藤栄作によって吉田が合祀され「七賢堂」となった。

 放蕩癖があり、酒乱でも有名な黒田清隆には、妻を殺傷したという噂がある。この黒田の窮地を救ったのは同郷も大久保であった。「此の大久保をお信じ下さるなら、黒田をもお信じ下されたい」とピーンと一言発し、その場が収まった。というエピソードがある。

木戸孝允日記」は記事が詳密で感情の起伏が表明されているが、大久保利通日記」は事務的かつ淡々とした記述であり、対照的だ。

以下、大久保の言葉として、書物やテレビドラマで紹介されているものを記す。「国家創業の折には、難事は常に起こるものである。そこに自分ひとりでも国家を維持するほどの器がなければ、つらさや苦しみを耐え忍んで、志を成すことなど、できはしない」「目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進む」「西郷が辞めれば政府が潰れる。しかし、西郷の意見を容れれば国が潰れる」(朝鮮征伐論争で西郷が下野した時の言葉)「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が…」(西南戦争で西郷が敗れた時の言葉)

2008年に学力テスト「特定の課題に関する調査(社会)」の調査結果が公表され、新聞で紹介されている。日本の歴史上の人物と業績との関係を組み合わせる問題(小学校6年生)では、正答率のワーストから並べると、大久保利通木戸孝允大隈重信小村寿太郎明治天皇勝海舟伊藤博文陸奥宗光板垣退助西郷隆盛となった。ベストから並べると、卑弥呼、ザビエル、ペリー、野口英世雪舟杉田玄白福沢諭吉織田信長聖徳太子伊能忠敬となった。明治維新以降の近代日本を建設した人物に対する認識が著しく低い。福沢がこれほど高いのは一万円札の影響だろう。大久保はやはり西郷と比べると、やはり人気がない。

2022年に鹿児島を訪問した。維新ロードでは西郷隆盛誕生跡で郷中教育の影響力を思った。維新ふるさと館は、明治維に果たした鹿児島薩摩藩の全貌が見える優れた施設だった。西郷隆盛大久保利通は180センチあった。因みに西郷との江戸城開城を談判した勝海舟は156-7センチだったはずだ。鹿児島には西郷南洲顕彰館はあるが、3つ年下の大久保利通を顕彰した施設はない。

不屈の精神で、冷静に、国家創業という難事を遂行し、近代日本の礎を築いた大政治家・大久保利通。「深謀遠慮自然の機に投じて図る」という言葉にこの人の政治観・仕事観が表れていると思う。組織の建設・改革にも同じ事がいえる。問題点を発見してすぐに解決の行動を起こすべきではない。大きな問題、小さな問題を、時間をかけて深く観察すべきなのだ。組織の中で事件や事故が起こり、皆がその問題を認識したとき、時間をかけて考えてきた解決策を出すと一気に進むことができる。それが時勢や潮時というものだ。機が熟さないのに立ち向かおうとすると労力もかかり、そして失敗する可能性が高くなる。そのあたりの機微を大久保は知っていた。それは日本の幸運でもあった。

大久保利通の次男・牧野伸顕娘婿は吉田茂茂の娘・和子が夫・麻生太賀吉との間に設けたのが、麻生太郎総理である。日本の近代を切り拓いたのは大久保利通であり、日本の現代の方向性を決めたのはその系譜の中にあった吉田茂であると総括しておこう。