『戒語川柳4』刊行ーー「呼び捨てと ちゃん・くん・さんを 使い分け」

『戒語川柳4』を刊行。

戒語川柳 4

「呼び捨てとちゃん・くん・さんを使い分け」「博学のバカは始末に困るもの」「旧友の人生さぐる面構え」「反常識非常識超え超常識」「異次元って最低限のことですか」「人間の生老病死フルコース」「冷や飯も食い方ありと人のいう」「自惚れと自己嫌悪の間往復す」「偏差より変差値競え未来見て」「起承転 後は転々結はなく」

「戦前と戦後がいずれ入れ替わる」「これからは情報でなく情操を」「本当の主要科目は音国美」「人の世はタテヨコナナメの時間地図」「旅ゆかば歩く見る聞く食べる飲む」「足学問観察眼と手仕事で」「暴走と妄想をやめ奔走を」「晩学は晩成でなくとも構わない」「五十肩昔はたしか四十肩」「インフラの心の腐敗それが危機」

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「名言との対話」10月23日。三島通庸「神代より荒れし那須野を開きつつ民栄えゆく里となさなん」

三島 通庸 (みしま みちつね、1835年6月26日天保6年6月1日) - 1888年明治21年)10月23日)は、日本内務官僚

鹿児島市出身。薩摩藩の御能方で金春流指南役の50石取の家で生まれた。幕末は西郷隆盛、明治期は大久保利通に取り立てられて新政府で活躍する。東京府参事、1874年に酒田県令を経て、1876年に初代山形県令(鶴岡県、旧山形県、置陽県の合併)に就任。道路・橋梁の整備と公共施設の建築を主要政策とする。

刈安新道、関山・作並・金山・磐根・加茂街道、小国新道、早坂新道、羽州新街道などを整備建設した。「土木県令」と揶揄されたが、陸路で仙台、鉄道で東京へ向かう輸送路が確立した。

県庁、病院、学校などの公共建築を多数つくった。多くはモダンな姿の擬洋風建築であり、その姿は画家の高橋由一の『山形市街図』に描かれている。この影響で、東北には多数の擬洋風建築が存在した。近代化産業遺産に指定されたものも多い。山県名産のさくらんぼ栽培も導入している。

1880年、栃木県令となり那須野ヶ原開拓を行い、三島農場をつくり別荘も持った。開拓者を祀った三島神社の境内には「きつね鳴く那須野原も今年より稲穂そよぎて秋風ぞ吹く」と刻まれた石碑がある。内務省土木局長を兼務した時期もある。ここでも道路建設や安積疎水、那須疎水の完成に尽力した。

1885年には第5代警視総監に就任。武術を奨励し、警視庁武術の功労者となった。柔道が必修となり、国に広まった。1887年には子爵となった。

ところで、三島通庸の事績を追うと、次代以降の人物の輩出に驚かされる。息子は日本銀行総裁、娘たちの婿には大久保利通の次男で内大臣をつとめた牧野伸顕がいる。孫娘の婿には吉田茂総理、玄孫(やしゃご)には麻生太郎総理と最近厚労大臣となった武見敬三。そして来孫(らいそん)にも大臣を経験した堀内詔子がいる。

彼らの系図を眺めると、大久保利通から始まって、鈴木善幸三笠宮崇仁親王竹内綱麻生太賀吉吉田健一、小林中、堀内光雄辻政信、、、、など政界を中心に皇族、財界などの著名人が複雑に入り込んでいることがわかる。閨閥の存在を感じる。このネットワークは、昆孫、仍孫、雲孫という将来世代にも引き継がれていくのだろうか。

タテ・ヨコ・ナナメに張り巡らされた閨閥ネットワークは確固たるものになっている。実業界で名を成した人物についても、同様の人的ネットワークがあり、しかも政界と財界もかたく結びついている。この構図が近代、現代の名門、もっというと貴族政治を構成している感がある。最近、「政治家でなく 政治屋でなく 政治業」という川柳を詠んで、ある句会で「天」をもらったことを思い出した。

話題がそれてしまった。三島通庸自身は、地方のインフラ建設や、開墾事業に強い熱意をもって成果をあげ続けたことで、多くの人に感謝された。それは葬儀には1万2千名が参列したに現れている。