神保町のシェア書店で本の入れ替え、寺島実郎さんと電話、古書店で巡り。池袋で樋口裕一さんと昼食。

神保町のシェア書店「猫の本棚」の「私の「人生100年書店」の本の入れ替え。

オーナーの樋口さんから景気を聞く。最近、メディアでシャア書店が取り上げられるので、棚は満杯で待ちが出ているそうだ。そういえば、今朝のテレ朝でも特集をやっていた。左の9冊が今年の発刊書。今年中に、後3冊の刊行を予定。

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美術関係の棚から古賀太『美術展の不都合な真実』(新潮新書)を購入。

店内にいる時に、寺島実郎さんから電話。懐かしい仙台のロイヤルパークホテルで講演会をしたが、まわりにアウトレットやシッピングセンターができていたこと。近況を聞かれる。近々、寺島文庫を訪問する予定。

以下は、仙台のホテルの周辺のイラスト。私が11年住んだ懐かしいまち「泉パークタウン」。上の方にに宮城大学がある。ホテル、県立図書館、ゴルフクラブ、テニスクラブ、乗馬クラブなど。

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神保町の古書店で2冊購入。佐高信『人生のうた』(講談社文庫)。佐高信『こんな日本に誰がした』(講談社文庫)。計400円。古書店で2冊購入。計400円。

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池袋の「うな鐵」で、樋口裕一さんと昼食を摂りながら近況交換。

仕事のこと、家族のこと、、。

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「名言との対話」10月20日吉田茂「 歴史を知らない国民は滅びる。」

吉田 茂(よしだ しげる1878年明治11年〉9月22日 - 1967年昭和42年〉10月20日)は、日本外交官政治家

吉田茂は高知の自由党の志士であった竹内綱の五男として東京で生まれている。後に、68歳で自由党総裁となり内閣を組織するという因縁がった。3歳で横浜の貿易商吉田健三の養子になる。明治維新の大立者であった大久保利通の子供であった牧野伸顕伯爵の娘を娶ったが、吉田健三の妻の祖父、つまり吉田茂の曽祖父は江戸時代の大儒・佐藤一斉だった。茂の娘・和子が夫・麻生太賀吉との間に設けたのが、小泉内閣麻生太郎総務大臣というわけだ。サンフランシスコ講和会議では、参加51カ国で、日本との講和に賛成48、反対3で講和条約が成立した。署名は主席全権の吉田茂だった。89歳で死去するまで政治的に大きな影響力を持った吉田は、東京帝大を28歳で卒業、50歳で外務次官、外相は67歳、首相は68歳というから随分と遅咲きである。そして75歳で第5次内閣を組織するなど政治的にも長命であった。昭和21年5月から29年12月まで首相在任期間は2616日となった。

「あなたは国家と国民がいちばん苦しんでいる時に登場され、国民の苦悩をよく受けとめ、自由を守り平和に徹する戦後日本の進むべき方向を定め、もっとも困難な時期における指導者としての責務を立派に果たされました。、、、あなたは、なにものにもまして祖国日本を愛し、誰よりも日本人としての自負心を抱いておられました、、、」。遅咲きで67才で総理になり、76歳まで第5次にわたって組閣し、89歳で亡くなった宰相・吉田茂(1878−1967年)の国葬の葬儀委員長を務めた佐藤栄作首相の弔辞である。

吉田茂は第一回の生存者受勲で大勲位菊花大綬章をもらった。そのとき、養父・健三の墓前で「相続した財産はすべて使い切りましたが、こうして大勲位をいただきましたのでご勘弁ください」と報告している。

富士山と皇室が日本だと語っていた吉田茂は、「歴史を知らない国民は滅びる」と語っていた。戦後の日本人は日本の歴史を学んでいるだろうか。特に近代から現代にかけての歴史観を持ち得ているだろうか。常に自らに問うべき至言である。

以上は、2016年に書いた文章だ。それ以後、私のブログには吉田茂の名前が頻繁にでてくる。戦後の政治家を論ずれば、かならず登場する。また、子どもの作家・吉田健一などを取り上げると吉田茂のことに触れざるを得ない。きりがないので、 2017年に神奈川県大磯の旧吉田茂邸の訪問記を書く。

 旧吉田茂邸は、2009年に不審火で消失、2017年4月に再建し、公開されたばかり。吉田自身が「海千山千荘」と命名吉田茂は「皇室と富士山」が日本だ、と言っていた。吉田が飽きることなく見つめていた富士山。「戦争に負けて、外交に勝つ」

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同じ部屋から相模湾を見渡せる。左手に見えるのは吉田がみた海。

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 庭の七賢堂。もともとは伊藤博文邸に四賢堂があった。四賢とは、木戸孝允岩倉具視三条実美大久保利通。これに、死後に伊藤博文が加わり、五賢堂となった。五賢堂を吉田邸に移築することになり、新たに西園寺公望を合祀。吉田の死後、佐藤栄作によって吉田が合祀され「七賢堂」となった。

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 吉田茂銅像は3つ。東京・北の丸公園(洋装)。高知空港(和装)。そして大磯。この銅像は他の二つと違って、多くの人々からの寄付によった。講和条約を結んだサンフランシスコを見つめている。右手にステッキ、左手に葉巻。

吉田茂は外交官養成を主眼とした学習院大学科が廃止になり東京帝大法科大学政治科に転入し卒業後外務省には28歳で入省。中国とイギリスなどが勤務地でエリートコースではなかった。外務次官を経て61歳で退官。67歳で外務大臣に就任、首相就任は68歳という遅咲きだった。この後、6年にわたり5度首相をつとめ(在任2616日)、引退後は大磯で後輩達を指導した。89歳で死去。三女の和子が麻生多賀吉に嫁いだ。その子が麻生太郎

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吉田は犬好きだった。庭には愛犬の碑が多い。「サン」「フラン」「シスコ」も。旧吉田邸の一階は楓の間 は執務室。1979年の大平・カーター会談が行われた。2階の書斎は4畳半。富士山が見える。掘りごたつ式。首相官邸への直通の黒電話。吉田文庫には、伝記が多い。渋沢敬三牧野富太郎、小山完吾、尾崎三良樺山資紀、、、。論語豊前市産業百年史も。金の間(応接室)。左は海、右は富士山。銀の間(寝室)。ここで亡くなった。吉田文庫:原敬、ジョン万次郎、乃木希典神武天皇の元首的性格、長生きの科学、、。日本航空整備株株式会社十年史、播磨造船所50年史、日本水産50年史、日立造船80周年、、。

建物は近代数寄屋を確立した吉田五十八の家屋を再現。庭園は中島健と久恒秀治(日本庭園研究家)によって設計された。吉田邸の作庭は当初中島と久恒の二人で取り組み、先輩の久恒主導で進んでいた。久恒は日本庭園の研究で一目置かれる存在で、桂離宮の研究や、土砂に埋もれていた銀閣枯山水を発掘・復元したことで知られていた。庭づくりで久恒は吉田茂と意見が合わず、仕事から退いたという。

 吉田茂は3歳で養子になり、11歳で家督を継ぐ。その財産は今の50-60億円になる。外交官と政治家生活で全てを使い果たした。勘弁して下さいと養父の墓で言ったという逸話もある。