『文芸春秋』8月特大号ーー「現代の知性24人が選ぶ 代表的日本人100人」

散歩途中のコンビニで『文芸春秋』8月特大号を購入。この号は1500円になっていて驚いた。文春はコロナ禍の間に、菊池寛の創業から100周年を迎えたことを理由に1年間の大型企画を組んで、3桁であった価格の1200円への値上げを読者に納得させ、そしてとうとう1500円にまでしたのだ。したたかである。優れた企画を連発できるかが、この雑誌の浮沈の鍵だろう。

「現代の知性24人が選ぶ 代表的日本人100人」という大型企画を読み始めた。

「日本人のアイデンティティを問い直し、日本人が将来に向かう指針とできいるような日本人とは誰か」がこの企画の趣旨である。もちろん1908年に刊行された内村鑑三『代表的日本人』の現代版を意識している。そこでは、西郷隆盛上杉鷹山二宮尊徳中江藤樹日蓮上人の5人が紹介されている。

それにならって、現代の知性24人が5人づつ人物をあげている。それでは「現代の知性」とは誰なのか。

保阪正康田中優子梯久美子片山杜秀藤原正彦佐伯啓思。坂東真理子。御厨貴原田マハ。宮崎哲也。鹿島茂・楠本建。I・ディオニシオ。牧原出。本郷恵子高田文夫国谷裕子生島淳。嶋田裕巳。M・ロバートソン。後藤正治。瀬戸欣哉。大栗博司。先崎彰容。

それぞれの専門性から選んでおり、女性陣は女性を意識して選んでいる。彼らがあげた100人のうち、この企画と同じ趣旨で私が毎日書いている「名言との対話」で取り上げた2500人を超す人物のうち該当者は60人ほどだった。これから座談会や、人物をあげた理由などを読んでいきたい。

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「名言との対話」7月11日。佐久間象山「凡そ学問は必ず積累を以てす。一朝一夕の能く通暁するところにあらず」

 佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん。文化8年2月28日(1811年3月22日ー元治元年7月11日(1864年8月12日))は、江戸時代後期の松代藩士兵学者・朱子学者思想家京都で暗殺される。享年53。

佐藤一斎に師し朱子学を修める。塾では佐久間象山山田方谷が二傑だった。次に蘭学・砲学を学ぶ。そして西洋技術の摂取による産業開発と軍備充実を唱えた、幕末の先覚者である。以下、象山のかかわる施設の訪問時に知ったことを記す。

2007年、長野県松代の象山記念館を訪問した。佐久間象山の記念館である。地元では「しょうざん」ではなく「ぞうざん」と呼んでいる。海舟の序文のある出版した「省けん録」を買った。「東洋道徳 西洋芸術」と言った象山は偉大な存在であるが、象山の記念館としては何か本質的なものを説明していないような気がした。隣の象山神社には9年の蟄居時代を過ごした「煙雨亭」もある。石碑には「余年二十以後乃ち匹夫も一国に繋るあるを知り三十以後乃ち天下に繋るを知り四十以後は乃ち五世界に繋るあるを知る」とあった。

2013年、東銀座の佐久間象山塾跡を訪ねる。銀座6丁目15番は、木挽町といっていた場所。小さな表示なのでなかなか見つからなかったが、Jパワー本社ビルの前に見つけた。この地にあった佐久間象山の塾には、30-40人の塾生がいた。勝海舟吉田松陰、橋本佐内、河合継之助、坂本龍馬などの大人物が佐久間象山に学んでいた。

2020年に長野県小渕沢の高井鴻山記念館を訪ねた。この人は北斎を招いた豪農商として有名だが、尊王攘夷論者としても有名な人物である。佐久間象山とも親友でここで月に数度も激論を交わしている。そのときに使った火鉢もあった。

「東の佐久間象山、西の横井小楠」と呼ばれた傑物である。勝海舟は12歳年上の象山が書いた「海舟書屋」が気に入って書斎に掲げた、それが海舟という号を使うきっかけだった。勝海舟の「氷川清話」では、佐久間象山は「物識りだったヨ。、、しかし、どうも法螺吹きで困るよ。」「学問も博し、見識も多少持っていた」との人物評だ。

吉田松陰は、佐久間象山の影響を受けて、安政元年下田の米艦に搭乗を計り失敗、投獄ののち生家に幽閉される。象山は松陰のアメリカ密航に連座して国許で蟄居させられている。高杉晋作も、佐久間象山からは「外国を自分の目で見なければならない」と教えられ、その後上海に行く機会を得ている。

佐久間象山は、多くの幕末のキーマンを指導し、大きな影響を与えている。維新の功労者の一人であるが、1864年に京都で暗殺の憂き目にあう。

国防については、「たとえ完全勝利を得たとしても国を戦場にするは上策に非ず。自然とわが国を恐れ、つけいる気を起こさせないのが最上の策である」と含蓄のある言葉を述べている。

「凡そ学問は必ず累積を以てす。一朝一夕の能く通暁するところにあらず」の前後には、士は過ちなきを貴ばず、善く過ちを改むるを貴しとなす」「東洋の道徳、西洋の芸術、精粗漏遺さず、表裏兼ね備え、よって以って民物を沢し、国恩の報ず」とある。

米百俵」の長岡藩第参事・小林虎三郎河井継之助とは幼なじみで、同じく江戸遊学時代、佐久間象山の門弟だった。象山の小林虎三への手紙では「近来西洋人の発明する所の許多の学術は、要するに皆実理にして、まさに以って我が聖学を資くる足る」と学問について語っている。

佐久間象山は、コツコツ積み上げていく、尺取り虫のように少しづつ前に進む、長い年月を費やす、こういう姿勢なくして学問は完成しないとの考えで得た深い学識で、多くの俊秀に影響を与えたのである。