『野田一夫の大いなる晩年』を1周忌の本日、9月3日付けで刊行します。

昨年9月3日に亡くなられた野田一夫先生を追悼する本づくりが最終段階にあります。

多摩大学初代学長、宮城大学初代学長、事業構想大学院大学初代学長と、多くの肩書に「初代」がつくという方です。

2000年に仙台にできた「野田一夫ファンクラブ」は2023年3月の「偲ぶ会」まで24回開催されました。「一夫という名前のファンクラブは3つしかない。長谷川一夫舟木一夫、そして野田一夫だ」というみなを笑わせた創設時の挨拶から始まりました。

野田先生が毎週1000人の友人、知人に出していたハガキ通信「ラポール」を、ファンクラブ関係のメンバーのボランティアで編集し、本の形にしたものです。

野田先生の75歳から、90歳で品川のホテルで1000人を集めた大パーティまでの記録です。晩年を、これほど肉体的、精神的にアクティブに活動したな人はいないでしょう。究極、絶対を意味する「大いなる」という仏教用語をタイトルに使った理由です。

またこのハガキに登場する人たちは、各界のきらびやかな内外の男女の著名人が多く、2003年から2017年までの21世初頭の同時代の記録としても価値があります。

発行は1周忌にあたる本日(2023年9月3日)としました。近々、本を入手する方法等をお報せします。

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「名言との対話」9月3日。折口信夫「まことに、人間の遭遇ほど、味なものはない」

折口 信夫(おりくち しのぶ(のぶ)1887年(明治20年)2月11日 - 1953年(昭和28年)9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者国語学者。釈迢空と号した人・歌人。

大阪市出身。医学に進ませようとする両親の希望から三高を受験する前夜に進路を変更し、新設の國學院予科に入学に卒業。1913年、12歳年長の柳田国男の知遇を得る。1916年、30歳で大学内に郷土研究会を創設。『万葉集』全二十巻の口語訳を刊行。1922年、國學院大學教授。

1925年、処女歌集『海やまのあひだ』を刊行。1928年、慶應義塾大学教授。1932年、文学博士。1940年、國學院大學に「民俗学」を新設。

折口は「マレビト」という独創的概念が日本の原点にあるとして、そこから日本文化を説明しようとした。「マレビト」とは異界からきた異人であり神であるという信仰である。この演繹的方法とは逆に柳田は国内の民俗現象を丹念に調べ比較することによって同異を見極めようとする帰納的方法論の持ち主だった。

折口信夫は、柳田とともに民俗学の先駆者として活躍する。「柳田民俗学」とならび、「折口学」と呼ばれる壮大な体系をつくり上げた。

一方で、折口は万葉集の研究者であると同時に「釈迢空」と号した有名な歌人でもあった。

弟子たちが出征するときに、「汝が千人いくさに立たば学問はここに廃れむ。汝が千人の一人だに生きてしあらば国学はやがて興らむ」と記している。

初めて知ったが、折口は男色であった。高弟の加藤守雄は未遂に終わったの様子が書いている(『日本奇人・稀人事典』)。硫黄島で戦死した養子の春洋は事実上の配偶者であった。折口は「男女間の愛情よりも純粋だと思う」と述べていた。

折口は国文学に民俗学的研究を導入し自らの学を「一己の学」と言い放った。独学の人だった。そして多くの弟子を育てている。以下、独学の人をあげてみよう。

民俗学者谷川健一(1921生)が日経新聞に5月に連載した「私の履歴書」は、実に興味深い内容だった。独学とは、学校に通わず先生にもつかず、独力で学ぶことだが、これらの独学者たちの特徴は「他人の真似をすることが大嫌い」で、光栄ある孤立の道を選んだ人たちだった。谷川は「孤立しているが、世の独創的な発想や研究は自分で学び、自分で考えることからしか生まれない」と述べている。

 特にこの最後の回(30回)の「独学者の魂」には感銘を受けた。この記事の中で、谷川は山折哲雄民俗学が「落日の学」といったことを紹介し、原因の一つは、民俗学者の多くが大学に職を得て、旅をしなくなったからだとしている。旅を続け豊かな実りを予感させる東北学の提唱者・赤坂憲雄の名前も出ており、谷川はこの学者への期待も滲ませている。

現場を踏み観察するという意味での「旅」を続けながら、その記録を丹念に書き続けることを、独学と理解してみたい。

日本各地を歩き回って、日本民俗学の基礎を築いた折口は、様々な日本人と出会い、日本人の姿を掴もうとした。その折口の「遭遇」の不思議さを語った言葉である。偶然なのか、必然なのか。人との出会いは不思議な運命に導かれているようだ。この言葉を聞いて「邂逅」というワードを久しぶりに思い出した。運命的な巡り合いを意味するこの言葉にふさわしい出会いが人生でいくつあるかが、人生の質を決めることは間違いないようだ。

 

参考

日本経済新聞私の履歴書

『日本奇人・稀人事典』