ユーチューブ「遅咲き偉人伝」は「中年の星」・アーチェリーの山本博。2028年のロス五輪で金メダルを狙う。

遅咲き人伝44は、アーチェリーの山本博さん。

22歳、ロス五輪で銅メダル。41歳、アテネ五輪で銀メダル。そして66歳、ロス五輪に挑戦し金メダルを狙う。

https://youtu.be/2zGJfYZb_sA?si=P8sGu6Xu0Q0rYJkv

「限界に追い込めば、限界が広がる」。この言葉には共感する。

5年後の「金メダル」は象徴として言っているのであって、アーチェリーを究めようとしているのである。アーチェリー道である。アーチェリーという競技は、山本博という人を得た。この道を歩く人が多くなるだろう。

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「名言との対話」9月2日。岡倉天心「歴史の中に未来の秘密がある」

岡倉 天心(1863年2月14日(文久2年12月26日) - 1913年(大正2年)9月2日)は、日本の思想家、文人。本名は岡倉覚三(かくぞう)。

東京開成所(現:東京大学)に入学。政治学、理財学を学ぶ。幼少期から英語に親しんでいたのをきっかけに東京開成所在学中に講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、美術品収集と日本美術の調査を行い美術の道に入る。

「いたずらに古人に模倣すれば必ず滅ぶ。系統を守りて進み、従来のものを研究して、一歩を進めんことを勉むべし。西洋画、よろしく参考すべし。しかれども、自ら主となり進歩せんことを。」という天心は同時代の芸術家たちに大きな影響を与えた。平櫛田中の回想では、彫刻家たちが作品が売れないと苦しさを訴えたとき、岡倉天心は「諸君は売れるようなものを作りになるから売れません。売れないものをお作りなさい。必ず売れます」と言われる。それなら簡単だと従ったら、彫刻作品が売れ出したという。また平櫛に「私は去年フランスに行ってきました。ロダンにも会いました。あのじいさんはそれをやっております。偉いじいさんですよ」語っている。

日本画小林古径は、天心からは「モットモット高い所、結局信貴山縁起位まで遡って標準を置いて見よ」と指導を受け、「絵というものの大義」を教えられて、一生の信条となった。

天心が行った柄の大きな活動は、欧米の模倣に終始するかぎり真の芸術はうまれない。足もとを掘り返そう、日本独自の種子を見出してそれを育成しようという運動であった。

天心が著した『東洋の理想』などをみると、歴史と地理の中に対象をおいて、その位置と意味を明らかにしていくという方法を用い、絢爛たる言葉を縦横に駆使しアジテーションしていくという文章である。

「変化こそ唯一の永遠である」

「内からの勝利か、さもなくば外からの圧倒的な死か」

「私たち日本人の住居、習慣、衣服や料理、陶磁器、漆器、絵画、そして文学にいたるまで、すべて茶道の影響を受けていないものはない。日本文化を学ぼうとするなら茶道の存在を知らずにはすまされない」

「ある時代なり流派なりの凡庸な産物をいくらたくさん集めるよりも、ただひとりの傑作に接する方がより多くのことを教えてくれる。」

『日本奇人・稀人事典』(祖田浩一)によれば、一番弟子であり、指導に手を焼いた横山大観は、「本当に偉い人で天才、筆を持たない芸術家、芸術及び芸術家を指導する人」と評して尊敬していた。して大観は酒豪の天心に鍛えれて大酒飲みにもなっている。

帝大の卒業論文で政治に関する論考を書き上げるのだが、相手にしてくれないので当時同棲していた女性が怒って火に焚べてしまう。困った天心は、急いで趣味であった美術に関する論文をまとめ卒業する。そのことで文部省に入ることいになった。それが日本美術の復興につながっていく。こういうことがなかったら、日本美術は完全に衰亡していただろう。その天心は冒頭の言葉のように、歴史を見つめよという。歴史と断絶した未来はない。どのような分野においても、復活は過去の歴史を見つめることで達成されるのだ。

 

参考

岡倉天心『東洋の理想』

・『日本奇人・稀人事典』(祖田浩一)