谷川健一『独学のすすめ--時代を超えた巨人たち』(晶文社)を読了。
在野の民俗学の第一人者である独学の人の著者が、自分で自分の道を切り拓いた民俗学の先輩の巨人たち--柳田国男。南方熊楠。折口信夫。吉田東伍。中村十作。笹森義助--の人生の足跡を描いた力作である。
以下、「独学」に関する記述のみをピックアップ。
・正統な学問にない分野の疑問を解くのが独学。すべてに疑問を持っていく。独学にはきりがない。たえず先へ先へと進むのが独学者の精神。無限に追求していく精神。自分が得た結論をもういっぺん疑ってみる。「思うて学ばざればすなわち危うし」は独学者が自足することへの戒めだ。在野の精神。独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者だ。生きた学問。
・学校教育は世襲の知識を受け取るところであり、国取りの知識ではない。独学のススメをできる教師こそ本当の教師である。知識は独学で学びとるときに初めて自分のものとなる。優れた学問を樹立したものはことごとく独学者の道を歩いた。
・独学者は非常に孤独だ。独学者は羅針盤を自分でつくらなくてはいけない。孤独だが、自分で切り拓いていくパイオニアとしての喜びがある。
・「自分一個の学」「私一個の学問」「自学」。独善と偏狭を戒めていれば正規教育を経てきた研究者の及ばない研究を生み出すことができる。自分で考える。考えて勉強する、調べる、そしてまた考える、この往復運動。
・与えられた既成の価値には目もくれず、新しい明日の世紀を開くために「自分で自分を作る」道を有ることする人びと。
・リテラリーマンとは大きな業績を残した独学者。
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・鳥居龍蔵「私は私自身を作り出したので、私一個人は私のみである。私は自身を作り出さんとこれまで日夜苦心したのである。されば私は私自身で生き、私のシムボルは私である。のみならず、私の学問も私の学問である。かくして私は自ら生き、またこれからもこれで生きんと思う」
・本居宣長「うひ山ぶみ」:「自分の得手なところから登ればよい。ただ必要なのは持続することである。たえまなくやるこtである。それさえあればいつかは山の頂をきわめることができる」
・チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin ([tʃɑrlz 'dɑː.wɪn]), 1809年2月12日 - 1882年4月19日)は、イギリスの自然科学者。卓越した地質学者・生物学者で、種の形成理論を構築。
・ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、1820年4月27日 - 1903年12月8日)は、イギリスの哲学者、社会学者、倫理学者。
・増田 義一(ますだ ぎいち、1869年11月24日〈明治2年10月21日〉 - 1949年〈昭和24年〉4月27日)は、日本の出版人、政治家。
・柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。明治憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。
・南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者、生物学者、民俗学者。
・折口 信夫(おりくち しのぶ、1887年(明治20年)2月11日 - 1953年(昭和28年)9月3日)は、日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。彼の成し遂げた研究は「折口学」と総称されている。
・吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日(1864年5月19日) - 大正7年(1918年)1月22日)は日本の歴史学者、地理学者(歴史地理学)。
新潟県出身。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。
・中村 十作(なかむら じゅうさく、慶応3年1月18日(1867年2月22日) - 昭和18年(1943年)1月22日)は、越後国頸城郡稲増村(現在の新潟県上越市板倉区稲増)出身の宮古島における人頭税廃止に尽力した人物。
・笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。
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明日から、大分、山口、広島、岡山の旅に出るので、大学で仕事を済ます。
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「名言との対話」。8月31日。ダイアナ「社会で最も弱い立場の人びとを助けようとすることほど大きな喜びはないわ」
ウェールズ公妃ダイアナ(Diana, Princess of Wales、全名: ダイアナ・フランセス(Diana Frances)、旧姓: スペンサー(Spencer)、1961年7月1日 - 1997年8月31日)は、イギリスの第1位王位継承権者ウェールズ公チャールズの最初の妃。
イギリスの名門貴族スペンサー伯爵家の令嬢として生まれ、1981年にチャールズ皇太子と結婚、ケンブリッジ公ウィリアム王子およびサセックス公ヘンリー王子の2児をもうけた。後にチャールズ皇太子と別居状態になり、1996年に離婚。1997年にパリで交通事故による不慮の死を遂げた。
「もし、私に何かあったら、真実を語って」と言われていたダイアナ妃のセラピストの書いた『ダイアナ妃の遺言』を読むと、占星術に凝るなどの占い中毒やエクササイズ中毒だったダイアナの日常、好悪の感情に揺れ動く情緒の不安定さ、ケネディ・ジュニアなど愛人との情事、そして心の空虚を埋めるための慈善事業などへの集中がよくわかる。ダイアナが心から共感していたのはジャッキー・オナシスの生き方だった。
世間知らずだったこのチャールズ皇太子妃は、夫の不倫への復讐として愛人を持ったのだと考えていた。このようなダイアナ自身の弱さが原因の行動は、圧倒的な共感を呼んで人気があった。女性たちはダイアナの中に自分の問題をみたのだ。始終、パパラッチに追われる生活を「金魚鉢で暮らしているようなものよ」と語り、アメリカ移住を考えたこともあったようだ。
ロイヤルファミリーとしてダイアナは慈善事業に取り組んだ。80以上の国にばらまかれている地雷の廃運動については、地雷で「犠牲になっているのは、子どもや動物、老人なのよ」と語っていた。ダイアナは100件近くあったチャリティを、王立マーズデン病院、英国立バレエ団、ホームレスチャリティセンター、ハンセン病団体、国立エイズ病院に絞った。そして名目ではなく、誠心誠意関与した。自分の人生を意義あるものにしたかったのだ。そして二人の王子を必ず慈善事業に伴うという教育を行っている。
野党だった労働党のブレアはダイアナを人びとの苦難に焦点を当てる外交大使にすると約束していたが、その夢は叶わなかった。また、ダイアナは自分の名前がついた病院やホスピスをつくりたかったのだが、死後にケンジントン宮殿に記念の噴水がつくられるにとどまっている。しかし、最も弱い立場の人びとを救おうとしたダイアナの真摯な発言と行動力は、人びとの心に強く訴え、感動を与えた。ダイアナ妃には人騒がせな女性という印象を持っていたが、実は英国民だけでなく世界の人びとに多大な影響を与えた偉大な女性でもあることがわかった。
- 作者: シモーヌシモンズ,イングリッドシュワード,Simone Simmons,Ingrid Seward,飯塚恭子
- 出版社/メーカー: 清流出版
- 発売日: 2011/03
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