『野田一夫の大いなる晩年』(野田一夫ファンクラブ編)を刊行。
- A5版。588ページ。9月3日刊。2600円。
- 編集、デザイン、投稿などボランティアで作業。
購入はアマゾンで。
はじめに
野田一夫先生は、2022年9月3日に旅立たれました。享年は95でした。
野田先生は接した人たちに与える影響力の大きな人でした。影響力の大きな人を「偉い人」と呼びたいと思います。野田先生は周りに深く影響を与え、社会に広く影響を与え、そして長く影響を与え続けた「偉い人」でありました。
野田先生は、「ラポール」というハガキ通信を毎週1000人にのぼる友人・知人に配り続けていました。多摩大の創設前から始まったこのハガキ通信の内容は、多摩大学学長時代、宮城大学学長時代、いくつかの著書にまとめられています。
私たち仙台の野田一夫ファンクラブは、野田先生のこの影響を「永く」与え続けるための一つの試みとして、75歳から90歳までの「ラポール」を題材に、『野田一夫の大いなる晩年』という書物を編むこととしました。
それは2003年から2017年までの期間にあたります。「9・11」直後の21世紀初頭から、イラク戦争、2011年の「3・11」の東日本大震災、そして、2020年から始まる世界を覆ったコロナ禍の前までの期間になります。
国内では、総理大臣は、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦、安倍晋三の各氏の時代でした。
この「ラポール」を読みながら、野田先生のアクティブな日常が手に取るようにわかりましたが、今「ラポール」を改めて読むと、交流のあった各界の著名人や将来性のある若い友人などの人たち、海外や講演で訪れた国内各地の旅の様子、話題になっている本、そして日本の行く末についての感慨などが縦横に書かれており、見事な同時代史となっています。
この膨大な記録を年齢順に並べ直してみました。75歳の正月から始まり、喜寿、米寿を経て、90歳の卒寿で1000人が集まった品川グランドホテルでの大パーティで終わっています。「気」の人であった野田先生のアクティブな姿を目にする人は「人生100年時代」の晩年の生き方のモデルとして、大いに励まされることでしょう。
『野田一夫の大いなる晩年』を1周忌にあたる2023年9月3日に上梓できたことを嬉しく思います。「深く、広く、長く」影響を与えた野田先生の影響力を、さらに「永く」保ち続けることができれば嬉しい限りです。
野田一夫ファンクラブ 久恒啓一
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「名言との対話」9月4日。白瀬矗「酒を飲まない。煙草を喫わない。茶を飲まない。湯を飲まない。寒中でも火にあたらない」
白瀬 矗(しらせ のぶ、文久元年6月13日(1861年7月20日) - 昭和21年(1946年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。
11歳の時に寺子屋の師匠・佐々木節斎から「お前はここではガキ大将で威張っているが、世界を見渡せば勇気のある立派な人たちが沢山いる」。そういってコロンブスやマゼラン、それに北極海探検で有名なジョン・フランクリンの話を聞かせる。そして南極探検を志した白瀬に5つの戒めを言い渡す。「酒を飲まない。煙草を喫わない。茶を飲まない。湯を飲まない。寒中でも火にあたらない」。白瀬はこの戒めを生涯にわたって守った。
- 「人間は目的に向かって剛直に、まっすぐ進むべきものである。」
- 「自分は、人が鍬や鎌で雑草を切り揃えた跡を、何の苦労もなく坦々として行くのは大嫌いだ。蛇が出ようが、熊が出ようが、前人未到の堺を跋渉したい」
「南極探検」は、ノルウェーのアムンゼン隊、イギリスのスコット隊は国家的な支援のもとに決行されたのだが、白瀬隊は後援会長・大隈重信等の協力のもと国民の義援金で支えられていて、船も装備も貧弱だった。このため遅れをとった。
1990年開館の仁賀保市金浦町の白瀬南極探検隊記念館は、建築家の黒川紀章の作品である。一度訪問したことがある。中央の円形の池に配置された円錐形の形態と、それをとり囲むように配置されたドーナツ形の形態によって構成されていた。
2000年の朝日新聞の「この1000年「日本の大冒険・探検家」読者人気投票」という企画では、10位・川口えん海、9位:猿岩石、8位:白瀬のぶ、7位:間宮林蔵、6位:ジョン万次郎、5位:堀江謙一、4位:最上徳内、3位:毛利衛、2位:伊能忠敬、1位は植村直己だった。
南極探検後、帰国した白瀬は4万円(現在の1.5ー2億円)の負債を一人で背負うことになる。この返済のために全国行脚の講演を行って全額を返済するのだが、極度の貧乏生活を送っている。白瀬の「恵まれぬ 我が日の本の探検家 パンを求めて処々転々」とは悲しい歌である。辞世の歌は「我なくも 必ず捜せ南極の 地中の宝世にいだすまで」であった。
1955年にベルギーで開かれた国際地球観測年に関わる南極会議で、当初は反対が多かったが、日本は白瀬隊の実績を述べて南極基地を設けて観測に参加することができたのである。「何とでも言え、世間の毀誉褒貶というものは、雲か霧のようなものだ。山が泰然としていれば、雲や霧が動いたとて、何ほどのことがあろう。やがて晴れる時が来るに違いない」と語っていたように、白瀬の志は死後に実ったのだ。