図解塾:『梅棹忠夫著作集』第7巻「日本研究」の講義を開始。まず「日本探検」から入る。

「図解塾」での『梅棹忠夫著作集』の図解講義は、第14巻「情報と文明」、第5巻「比較文明研究」を終えて、本日から第7巻「日本研究」に入る。

最初は「日本探検」。「中央公論」に連載したもので、本日は「福山誠之館」と「北海道独立論」をやった。私が手描きで描いた図解を塾生がパワーポイントで清書し、それをみながら著作集の内容を私が解説するというやり方を試した。「名神高速道路」「大本教」はできなかったので、次回にまわすことにした。

梅棹先生の探検のやり方とその成果報告は素晴らしい。

「なんにもしらないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の目でみて、その経験から、自由にかんがえを発展させることができるからだ。知識は、あるきながらえられる。あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく。これは、いちばんよい勉強の方法だと、わたしはかんがえている」

以下、塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。本題に入る前の、岡山の新しい会館ができて活気が戻ってきた話や、山下清展の話、ユーチューブ「遅咲き偉人伝」が50巻を越えたこと、「野田一夫の大いなる晩年」が出て即注文した人が多かったことなど、いろいろ元気をもらえる話が聞けてよかったです。さて本題の「日本研究」ですが、事前課題は手書き資料をパワポのファイルにするだけで、内容をあまりよく理解していませんでした。1枚の図に至るまでの膨大な情報量。「なんにもしらないことはよいことだ。知識はあるきながらよみ、歩きながらかんがえることによって得ることができる」ということの大切さを改めて知りました。今日は2枚だけでしたが、最初の「福山誠之館」では、わが国における藩校の存在がいかに大きな意義を持っていたかよく分かりました。 2枚目の「北海道独立論」はスケールの大きな話で、自分自身はあまり北海道とのつながりはなかったのですが、それでも北海道の広さや大自然、植民により人々が移り住み酪農や米作りなどの産業が興ったことなどから、北海道が独特の雰囲気をもっていることはうなずけます。これからも楽しみです。
  • 久恒先生、皆様、おつかれさまです。本日、図解塾。本日より梅棹文学は新シリーズ『日本探検』が始まりました。世界をフィールドワークした梅棹忠夫先生が日本各地を探訪し、中央公論誌で連載された手記について久恒先生より図解と共にレクチュア頂きます。本日は初めの2件。① 福山誠之(せいし)館:シリーズの初めに相応しく、日本教育のルーツ福山が舞台。江戸時代には諸藩が藩士の子弟を教育する為に設立した「藩校」が凡そ300あり、福山誠之館は中でも他の藩校と違い日本を俯瞰した教育方針により、後年優秀な人材を輩出したそう。井伏鱒二、服原麟太郎、宮地伝三郎…。近代化は明治が起点ではなかった。明治以降日本は中央政治体制となり今に至るが、江戸の昔にあった「藩」による『仲間意識』の感覚が今も習慣として残っていて、日本文化の一コマを見た思いで興味深かったです。②  北海道:トインビー(歴史学者・イギリス)来訪の際(1956年)、西洋風近代的な生活様式の酪農家を絶賛したそう。果たして根釧原野パイロットファームでは借金を抱えた入植者が規格的な働き方で「開拓者魂」は見いだせず…。歴史を紐解けば、樺太の開拓次官だった黒田清隆戊辰戦争では西軍西郷隆盛の右腕として活躍)が招聘した「お雇い外国人」の一人であった当時の米国農務省総裁ホーレスケプロンにより創設された札幌農学校(現北海道大学)が土着のエリートたち(内村鑑三新渡戸稲造、宮部金吾ら、かのクラーク博士の愛弟子)を輩出、彼らによってデンマーク型農民指導が行われ今の北海道が造られたそう。一方稲作にこだわった一般大衆層も有りここに『日本文明の一亜種』が形作られ、『新世界』(西欧にとってのアメリカ・ニュージーランドと同じく)として政治的に独立する可能性を秘めていた(蝦夷共和国なる建国の動きが有った、1869年)という点には驚きました。地形や気象の条件が内地と異なる北海道では役所の管理体制も独特で『開発局』(中央管理:統合主義)と『道庁』(地方管理:分離主義)双方が競合するも非干渉(いわゆるモンロー主義)の関係にあるとの事。経済面でも首都圏でのメジャ資本との直接対決で消耗(資本流出)するよりもこれに非干渉のスタンスで地域内で経済を回すという独特な手法を見聞きしますが、永続的な成長持続の為の施策が必要ではないかと感じました。もっと豊かで強くなって欲しい!。次回以降も梅棹先生による「日本フィールドワーク」ネタが続々レクチュアされるとの事でワクワク致します。次回も宜しくお願い致します。有難うございました。
  • 9月の図解塾に参加させていただきました。久恒先生、皆さまありがとうございました。本日は、梅棹忠夫先生の「日本研究」日本探検の「福山誠之館」①についてわかりやすく詳しく説明していただきました。日本探検の主題として人類史の未来に日本文明は何を寄与しうるか、具体的な事例により、梅棹先生の思想に触れることができました。福山誠之館高校というのは聞いたことがありましたが、歴史的背景については知りませんでした。「誠之館」は、備後福山藩の藩校で、儒学国学、数学、医学、兵学など様々なこと学べる学校で、江戸時代に藩校として有能な人材を育成することに力を注いでいることが改めて分かりました。近代の日本文明の構造は、明治以降、大きく変わったように思えるが、江戸時代から近代までその精神性は、つながっていることが、今回の「誠之館」の事例から、理解できました。伝統と近代化は、対極にあるように思えるが、つながっており、江戸時代の藩制度の意識が、現在も残っている。そういった日本文明の構造を知り、日本文明の新しい可能性を模索することが大切だと思いました。また日本は、地方原理が強い型の文明であり、地方原理が再び起こり、大備後市の建設(福山藩の再現)も確かに実現されてもおかしくはないと思いました。なぜなら福山市は今も広島県というより、備後地方として岡山県に近い感じがあるからです。藩制度が今も続いていると感じさせられるようなとても興味深い内容でした。二枚目の図解は、日本探検「北海道独立論③」をわかりやすく説明していただきました。印象に残った内容は、北海道の開拓時の農業についてです。北海道で難しいコメ作りに成功し、日本内地の延長として、日本文明の①同質化に成功した事と、逆にデンマークを模範とした酪農が成功し、このことは、日本文明との断絶し、西欧との接続によるに日本文明の②異質化→分離→北海道文明→北海道独立論へとつながってくることや③商工業が大事という考えも興味深かったです。次回も楽しみにしております。ありがとうございました。
  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今日は梅棹忠夫先生の『日本研究』の中から、「福山誠之館」と「北海道独立論」を、久恒先生の図解をもとに学びました。「福山誠之館」は江戸時代の福山藩の藩校。江戸幕府の老中阿部正弘が福山藩の藩主の出で、誠之館において外国の圧力に対処できる人材養成のため、国学だけではなく、洋学・数学・兵学なども学ばせていたというところに興味をそそられました。江戸時代、藩校は全国に285校あったとのことですが、 「教育」に力を入れ、「福山誠之館」 をはじめとして  多くの人材が藩校から排出、後の近代化に繋がっていき、現代においてもいろいろなところにその面影が感じられる、というところが印象に残りました。また「北海道独立論」では、ぼんやりとしていた「北海道の魅力」(おそらく多くの人も感じていると思うのですが)について、そのように感じる理由が少し見えたように感じました。デンマークを模範とする酪農や、「日本の新世界」を目指した歴史がある一方で、コメ作りへの執着など内地化へ向かうベクトルもある、それらが併存しているところに、北海道ならではの魅力が生まれる元があるのだと思いました。ありがとうございました。次回は「高崎山」「出雲大社」と日本研究が続くとのことで、どのような話を伺えるか楽しみです。
  • 本日もありがとうございました。梅棹文明学の日本研究が始まりました。図以上の深い説明があって、ついていけずに大変でした。梅棹忠夫先生の、旅行しながら、膨大な本や資料を読みながら、蓄積されているその知識と合わせながら、世界の土地と比較したりしながら、その土地と中央、日本がどうしていったらよいのかと深めていく方法で、日本を研究していく。その中身をこの講義で聞けるのはとても素晴らしいことだと思いました。北海道では、牧場などの観光ばかりでしたので、次回訪れることがあったら、米についても注目してみたいと思いました。次回からも難しそうですが、どうぞよろしくお願いいたします。

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「名言との対話」9月6日。歌川広重「東路に筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん(死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい)

歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日1858年10月12日)は、江戸時代浮世絵師

江戸の火消しの家の家督を継ぐ。役者絵、美人画、風景画、花鳥図を描く。1832年、35歳から絵師に専念する。1833年に傑作「東海道五十三次」を発表し、シリーズ化する。遠近法の採用、立体的描写は講評だった。また「江戸名所」シリーズも手がけた。

花鳥画、歴史画、戯画、玩具絵、春画美人画。さらに肉筆浮世絵、団扇絵、双六、絵封筒、絵本・合巻・狂歌本の挿絵も描いた。生涯で描いた作品は2万点に及ぶとされる。

2007年に「天童広重」と呼ばれる肉筆画で有名な天童市の広重美術館を訪問した。

広重の画業200年を記念して平成9年にオープンした美術館だが、その数年前にも訪れたことがあり2回目の訪問である。滝の湯ホテルという大きなホテル所有のコレクションを展示した美術館で、内部は落ち着いた雰囲気で、二つの部屋で広重の浮世絵などを堪能できる。

江戸後期天童藩は財政が苦しく、商人や富農の献金献金や借金で運営をしていた。江戸詰めの藩士吉田専佐衛門、木村宮之助や、藩医の田野文仲といった人々が、狂歌を通じて懇意になった広重に依頼して肉筆画を200枚描いてもらって、献金の御礼や借金返済の肩代わりをした。広重は丸2年かけて完成している。この大量の肉筆画・広重が後に「天童広重」と呼ばれた。狂歌は滑稽や風刺を読み込んだ和歌であるが、藩士たちはそれで得た人脈で藩の財政を救ったのである。広重は東海道広重という名前で狂歌も詠んでいた。

広重は晩年の工夫として竪絵と呼ばれる浮世絵を描いている。絵は横が広い画幅の中に描くのが一般的だが、難しいといわれる縦長の絵も描いている。また死絵(しにえ)と呼ばれる絵もあった。これは、著名人が死亡したときに出版される追悼の絵で、肖像画に業績や辞世の句、戒名などを加えた絵である。

 2016年にサントリー美術館の「原安三郎コレクション 広重ビビッド」展をみた。原安三郎のコレクションには2006年に仙台三越で開催された「北斎と広重」展で触れたことがある。サントリー美術館で購入した資料によると、2005年から全国7カ所で巡回開催されたのが、一般への初公開だったとあるから、その展覧会を見たわけだ。240点の出品があり、「思いのほか大きい展覧会」との感想を持った。

サントリー美術館の「原安三郎コレクション 広重ビビッド」展。歌川広重の57歳から62歳までの6年間の晩年の大作・代表作。初摺でもあり、保存状態もよく、最高の揃物である。

「六十余州名所図会」。70枚。61「豊前 羅漢寺 下道」は大分県中津市。競秀峰、青の同門、羅漢寺下道、山国川、日田往還、至羅漢寺

全国5機内7道の名所を描くという一大スケールの揃物が見応えがあったが、特に印象に残ったものを記す。伊豆 修善寺 湯治場。江戸 浅草市(初摺)と(後摺):色合いが違う。美濃 養老の滝:大木のごとき青い滝。飛騨 籠わたし。下野 日光山 裏見ノ滝:滝が見事。伯耆 大野 大山遠望:まろやかな大山。出雲 大社 ほとほとの図:手前の娘達のあでやかさと遠くの人たちの白黒の薄さのコントラスト。美作 山伏谷:太い斜めの風雨の迫力。阿波 鳴門の風波:怒濤の渦と白い波頭。

「名所江戸百景」120枚。安政江戸大地震(幕末の天災の中で被害は最大級)の直後から発表が始まった。先んじて出板された「絵本江戸土産」は、江戸の名跡のガイドブックとして重宝されたベストセラーだった。するかてふ。大伝馬町こふく店:火消し隊。大はしあたけの夕立:ゴッホが模写。深川萬年橋:桶、橋、亀。水道橋駿河台:大鯉のぼり。箕輪金杉三河しま:鶴。よし原日本堤。浅草田浦酉の町詣:猫。亀戸梅屋敷:ゴッホが模写。深川州崎十万坪:大鷲。月の岬。目黒元富士。王子不動之滝:木のような滝。真間の紅葉手古那の社継はし。

 ゴッホ(1853--1890年)は、広重の晩年の作に強い影響を受けている。オランダ・アムステルダムの国立ゴッホ美術館には500点近い浮世絵版画が所蔵されているが、1880年代のヨーロッパはジャポニズムが開花した時期だ。ゴッホの「花咲く梅ノ木」は、浮世絵そのものの模写に近い。「雨中の橋」は油絵で描いた浮世絵である。有名な「タンギー親父の肖像」は、よく観ると背景に花魁、役者絵、富士、桜などを配しているのは面白い。ゴッホは「私の仕事の全てはある意味で日本美術を基礎としている」とも語っているから、広重の西洋の遠近法である透視図法を充分に消化してすっきりとした整理された作風は、絵画の世界において後の世に与えた影響は非常に大きいことがわかる。

 大胆な構図を得意とした北斎に対し、「江戸のカメラマン」と呼ばれた広重は写生的な作風だ。代表作である「東海道五十三次之内」は、北斎の「富嶽三十六景」と比較されるが、広重は道中の臨場感を出すために人物を大胆に配し、観る人に旅の疑似体験をさせようとする意図がある。

北斎と広重という二人のライバルは、作風、画名の考え方、生活のレベル、主観と客観、弟子の多少、死への考え方など、対照的な人生を送っている。

北斎は1849年の88歳まで生きたが、北斎の37年後に生まれた広重はコレラにかかり61歳で死去している。二人の実働年数には大きな差があった。

2021年に府中美術館で「映えるNIPPON 江戸ー昭和 名所を描く」展をみた。広重本人と、明治の広重、大正の広重、昭和の広重4人の広重が紹介されていた。

歌川広重「浮世絵版画の大絵師」。寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日1858年10月12日)《名所江戸百景》

小林清親「明治の広重」。《駿河町雪》。1847年9月10日弘化4年8月1日〉- 1915年大正4年〉11月28日)

吉田初三郎「大正の広重」。《神奈川県鳥瞰図》《東海道風景選集 日本橋(夜明け)》。1884年3月4日 - 1955年8月16日。写生の旅を重ね、何百枚ものスケッチを統合することで描き出される初三郎式鳥瞰図。観光。鉄道図絵。名所図絵。3000点以上の鳥瞰図を作成。

川瀬巴水「昭和の広重」。《東海道風景選集 日本橋(夜明け)》。1883年明治16年)5月18日 - 1957年昭和32年)11月7日。新版画。

広重にはめんめんと後を継いだ画家がいたのである。そういう意味では広重は生きていてずっと日本各地の風景を描いているともいえる。本物の広重は、辞世の歌のように、極楽浄土でもその風景を描いていると考えよう。