最近読んだり、聴いたりしている本と雑誌。
『致知』10月号。盲目の浅川智恵子(日本未来科学館館長)のキャリアに感銘を受けた。栗山英樹。森林貴彦。「流水濁らず 忙人老いず」。
- 『世界』9月号
- 山口瞳『追悼!』(上下)。少しづつ読み始めた。山本周五郎。花森安治。向田邦子。坂本九。色川武大。守谷兼義。吉行淳之介。、、、「人間には長所と短所があり、その短所を書かなければ、故人の全体としての人間像が浮かびあがってこない。すなわち、本当の追悼文にはならない。私はそう思っている」
- 『日経サイエンス』10月号。チャットGPT。
- 『ZAITEN』10月号。
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「名言との対話」9月7日。泉鏡花「予は「だ」というと強くあたり過ぎると思ふ。、、「だ」では、読者に失礼なような心地がする」
泉 鏡花(いずみ きょうか、1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)は、日本の小説家。享年65。
金沢生まれ。1889年(明治22年)4月、友人の下宿において尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。上京し紅葉門下に入り、尾崎家にあって、原稿の整理や雑用にあたり、紅葉の信頼をかち得る。1900年に代表作『高野聖』を発表。1939年逝去。1999年金沢の生家跡に泉鏡花記念館が開館。2007年以降、何度か金沢を訪問することがあり、金沢三文豪と呼ばれる泉鏡花記念館、徳田秋声記念館、そして室生犀星記念館を堪能した。鏡花は江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味とロマンティシズムあふれる幻想文学の先駆者である。
生誕100年を記念して1973年に設けられた泉鏡花文学賞は、小説や戯曲などの単行本で「ロマンの薫り高い作品」が対象。以下受賞した人々。半村良。色川武大。唐十郎。澁澤龍彦。筒井康隆。宮脇俊三。倉橋由美子。吉本ばなな。山田詠美。村松友視。田辺聖子。久世光彦。丸谷才一。桐野夏生。小川洋子。横尾忠則。瀬戸内寂聴。、、。
「予は目撃せり。日本軍の中には赤十字の義務を完うして、敵より感謝状を送られたる国賊あり。しかれども敵愾心のために清国の病婦を捉えて犯し辱めたる愛国の車夫あり、、」「一草一木の裡、或は鬼神力宿り、或は観音力宿る」「人間よくなるも悪くなるも一寸の間だ」
鏡花は「要するにお化けは私の感情の具現化だ」というのだが、お化けと幽霊の比較は面白い。「恨めしいって化けて出るのは田舎者のお化けに限る。・・・・江戸っ子の幽霊は、好いた奴の処のほか出やしない」「完全なる愛は『無我』のまたの名なり」ともいう鏡花の説によれば、お化けの恨みや幽霊の未練の両方とも「我」を忘れていないから、不完全な愛ということになるだろうか。
『決定版 泉鏡花全集 決定版日本文学全集(文豪e叢書)』で泉鏡花の文章に接した。
「婦人十一題」「妙齢」などを読んでみたが、その絢爛豪華な書きぶりに圧倒された。莞爾に「にっこり」と読ませている。
中島敦は「私がここで大威張りで言ひたいのは、日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ。ということである」と語っている。そして、言葉の魔術師、感情装飾の幻術者、一個の麻酔剤、阿片であるとも言ってる。この言葉を読んで、特権を使わねばならないと改めて思った。同年の友人・徳田秋声は、「亡鏡花君を語る」で、紅葉は鏡花にあっては絶対で師弟関係の美しさを讃えた。そして「文章も奇才縦横だが、座談は殊に面白く、怪談が尤も得意であった」と述懐してる。同郷・同窓・同門ではあるが紅葉にやや批判的であった徳田秋声とは、紅葉をめぐってトラブルも起こしている。
鏡花の文章についての論考に興味をもった。「小説文体」では、雅俗折衷の文体は一筆一筆に面白みがあり、言文一致は油絵のように少し離れてみると全体の景色がぼうっと浮かぶ。両方試してみるつもりだと書いている。
「近頃の小説の文章に、音律といふことがゆるがせにされて居る、、、、予は「だ」というと強くあたり過ぎると思ふ。、、「だ」では、読者に失礼なような心地がする」。この指摘には大いに共感した。