「東京未来フェス」と「UFO未来フェス」に参加。

調布の仙川駅近くのシェア書店「センイチブックス」で行われた東京未来フェスに参加。

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11時半から橘川さんと「蕎麦 石はら」で食事。新雑誌『イコール』関係の2本の要請を受ける。

  • 12時半に会場に着くと、大学4年生の女性(時事通信に内定)の卒論「シェア書店」のインタビューを橘川さんが受ける。f:id:k-hisatune:20231104070839j:image
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  • 13時から「東京未来フェス」。同時間に丹波や糸島など全国で未来フェスが同時開催されている。冒頭は主宰者の橘川さんから新雑誌創刊宣言があり、その後、青森、米沢、岡山、奈良から、調布、横浜などから、ズームとリアルで一人5分の発言が続いた。フリーペーパー。竪穴式住居。着物生活。クリスチャン。僧籍。紅花。ユーチューブ「すなお」「シロップス」。遅咲き偉人伝。言葉のちから塾。「イコール」の記事執筆体験。凝縮。環境・エネルギー・脱炭素。自動運転。新・孔子の人生訓。実年期。生きづらさ。ロスジェネ世代。、、、
  • 15時からは、第1回「UFO未来フェス」。長野に住むUFO目撃者の女性の体験談を中心に進む。参加者のUFO体験や考えが語られる。終了後は、参加者全員が「UFO」について何でもいいからしゃべることになる。私はJAL広報部時代にパイロットがUFOを目撃した時に私にテレビ出演の依頼がったことを話した。

この「センイチブックス」というシェア書店では、謎解きのイベントをやっているようで、多くの人が現れ、盛況だった。本棚の本を並べる空間の中で、活発なコミュニケーションが行われている。仙川を通る時には下車して気楽に寄ってみよう。

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「名言との対話」11月3日。福沢捨次郎「まず獣身を成して、その後に人心を養う」

福澤 捨次郎(ふくざわ すてじろう、慶応元年9月21日(1865年11月9日[1]) - 大正15年(1926年)11月3日)は、日本ジャーナリスト

福沢諭吉の次男。2歳年上の長男・一太郎と一緒に予備門に入るがともに中退し、慶應義塾に移り、1883年にアメリカに留学。土木工学を学び1888年に帰国。山陽鉄道を経て、1896年の31歳で時事新報に社長として入社。以後、没する1926年まで約30年間その地位にあり、堂々たる新聞に育て上げた。

福沢諭吉の主たる事業は、「学校と新聞」であった。慶応義塾一太郎が社頭として受け継いで、諭吉精神の集大成である「修身要領」の編纂にもあたっている。そして時事新報は捨次郎が引き継いだ。

捨次郎は凡庸な二世経営者ではなかった。三田評論の「福沢諭吉をめぐる人々」によれば、時事新報は、捨次郎のアメリカ時代に身に着けた知見と彼自身の企画力で、ヒットを飛ばしていった。捨次郎はロイター通信との独占契約、新聞界初の美人コンクール、女性速記者の登用、「年鑑」の発行などを推進し、新聞界に多くの先例をつくった。

坂倉卓造「五十人の新聞人」によれば、事件報道など社会面の充実、案内広告による増収、社会風刺などの新聞漫画の採用、スポーツ記事の掲載など、多くの先駆けを行っている。捨次郎の死後、時事新報は競争力を失い、1955年に産経新聞と合同にいたり、終刊となっている。

福沢諭吉は、五男四女を設けている。諭吉の教育方針は「身体壮健精神活発」と「先成獣身而後養人心」であった。まず獣のような強健な体をつくり、その後に人としての心を鍛える、であり、子どもたちにその通りの教育をしている。5歳までは思う存分暴れさせて、一太郎8歳、捨次郎6歳で初めて「ひびのをしえ」を与えている。

福沢捨次郎は、優れたスポーツマンであったように「獣身」を持っていた。そして精神の活発な「人心」をもって父・諭吉の新聞事業を発展させたといえるだろう。捨次郎の言葉はみつからなかったので、「先成獣身而後養人心」(まず獣身を成して、その後に人心を養う)という福沢諭吉の言葉を採ることにした。