「図解塾」は「世界の名著」シリーズを終えて、「梅棹忠夫著作集」の講義に戻る。

図解塾6期の18回目。3月からの続けていた「世界の名著」の図解講義シリーズ47冊が終了し、再び「梅棹忠夫著作集」の第5巻「比較文明研究」の戻った。

本日の大テーマは「東南アジアおよび東アジア諸文明の形成」。「四つの言語群」「古代諸国家群」「ベトナム・タイ・ビルマ」「文明の生態史観の修正モデル」。そして「東アジアにおける律令国家群」のさわり。

以下、塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。皆様の先週までのいろいろな活動と、先生のすばらしい活動のお話を聞き、暑いと言ってられないなぁと思いました。ありがとうございます。本日から梅棹忠夫先生の、第5巻「比較文明学研究」の続きの始まりでした。最初の「四つの言語群」の、東南アジアおよび東アジアを大陸部と島しょ部に分け、言語、宗教、民族が分かる地図が、今回の講義の私の頼りとなりました。地理的関係が、お話を聞くうえで大切ですね。後は、初めて聞く単語ばかりでしたが、なるほどと聞いておりました。東ヨーロッパと東南アジアの関係の、ふりこのような図も、地図にあてはめて考えるのですね。最後の「東アジアにおける律令国家群」の資料では、朝鮮海峡が元軍が攻めてくるときのフィルターとなり隔離の海となっていたこと。ベンガル湾が文明の輸入のためのパイプラインとなり結合の海となっていたことが、とてもイメージしやすかったです。地理的要因が深く関連していることがここでもよくわかりました。 ここの部分は次回また詳しくお話くださるということ。どうぞよろしくお願いいたします。
  • 本日もどうもありがとうございました。今日は久々の「文明の生態史観」でした。東南アジアはカンボジアのことを少し知っている程度です。他の国についてはタイとマレーシアに学会でちょっと行っただけ。「文明の生態史観」に中に宗教、言語、歴史、地政学的なことなどが凝縮されていて本当に勉強になりました。とりわけ、東南アジアを東ヨーロッパと対比させて見るという見方には驚きました。まさに世界全体を俯瞰して見ていなければそういった発想は出てこないでしょう。これまで東南アジアのことをほとんど知らなかったことに気づきました。現在、急成長を遂げているASEANの国々とどう付き合っていくか。過去には日本は先進国で東南アジアはODAなどで支援してあげる後進国という上から目線だったと思いますが、残念ながらそういう時代ではない。寺島さんがよくおっしゃるように、米中の対立の中でアメリカべったりでいくのではなく日本が自立した民主主義国家として付き合っていくことが大切だと思います。そのためには、各国の歴史や文化をもっとよく知り、リスペクトしあう関係になることが必要でしょう。図解塾や幸福塾で学んでいると、知りたいこと、読みたい本がどんどん増えてきて、いくら時間があっても足りません。これから、「文明の生態史観」もさらに深まっていくということで、楽しみにしています。幸福塾の、実年期の生き方というのもとても楽しみです。
  • 図解塾(6期18回目)に参加させていただきました。久恒先生、皆様ありがとうございました。図解塾の「世界の名著」47冊の図解塾講義が前回で終了し、今回は、再び梅棹忠雄著作集の図解講義が始まりました。
    梅棹忠雄著作集の「文明の情報史観」第14巻図解49枚が講義終了し、次に「文明の生態史観」第5巻「比較文明研究」図解資料47枚のうち、図解28枚が講義終了し、図解資料29枚目からが、講義内容です。今回は、第5巻「比較文明」の「東南アジア及び東南アジア諸文明の形成」について図解により分かりやすく説明してくださり、興味深い内容でした。 東南アジアについて少しニュースでみた程度でほとんど知識がない状況でしたが、図解により、地理的歴史的にすこしでも把握することができたことは良かったです。特に印象に残ったことは、東南アジアを4つの言語群で分けることができる点です。東南アジアは多くの言語で成り立ち、理解しにくいと思っていたので、とても参考になりました。「古代諸国家群」の図解による説明では、クメール国家(カンボジア)のアンコールワットビルマミャンマー)、タイ、ベトナムの民族や歴史の話も興味深かったです。東アジアにおける律令国家についての説明では、東アジアと日本の関わりについても興味深かったです。東南アジアの一つの国だけ知るのではなく東南アジアの地域全体を知ることの大切さがわかりました。次回も楽しみにしております。
  • 久恒先生、皆様、お疲れ様です。本日図解塾、久々の梅棹忠夫著作集の図解講義が再開!久恒先生ブログによると、「諸文明における宗教の層序学」最終回が本年3月8日とありましたので、実に4か月ぶり。再開第一回目のテーマである「東南アジア」について、久恒先生よりレクチュア頂きました。先ずは地図上で各地域の位置関係把握を兼ねた「四つの言語群」の定義、①チベットビルマ系、②シナ(ラオス)・タイ系、③オーストロアジア(カンボジアベトナム)系、④オーストロネシア(マレーシアから東に広がる島しょ部)系。夫々の地域で使用される言語と共に、それらに関わる侵略・占領~独立の歴史を確認しました。歴史観点では、古代12世紀頃と言われる「アジアの始まり」において、クメール(カンボジア)、チャンバ(南部ベトナム)、ビュー(ビルマ)、スマトラ、ドヴァーラヴァティ(タイ、半島付け根部分)と諸国家群が分布し、その後ビルマ、タイ、ベトナムを形成して行く。地政学観点では、中国・インド・日本に囲まれた東南アジアと、西欧・地中海・ロシアに囲まれた東欧諸国とは、互いに「クロスロード」(交差点)と呼ばれ、「砂漠の外側」「湿潤地帯」に位置し、人々が集まる場所として立地条件が類似。また、東南アジア&日本との比較で解る①巨大文明からの影響(インド文明/中国文明)、②小さな「帝国」(タイ、ビルマ、朝鮮、日本)、③神聖なる王(アンコール朝9C、聖武天皇8C)といった共通点や、「結合」の海(文明のパイプ役:ベンガル湾)VS「隔離」の海(フィルター役:東シナ海)といった「地球規模」での「対称関係」については、自ら諸国へ赴きフィールドワークを通じて養われた感覚をお持ちだった梅棹先生ならではのスケールの大きな発見であると大いに納得、感動しました。明治維新から150年余りが経過し、長らく西欧・米国文化の影響を受け続けてきた我々にとって、「ご近所」である東南アジアの存在はまだまだ理解が浅く、そしていま・これから、米中問題に右往左往することなく近隣諸国と協力を深め、安全と発展を目指す日本人として、「ご近所」のみならず、特にその延長上にある「琉球・沖縄」との歴史や今後の在り方についても併せて学んでいきたいと感じた次第です。おわりに本日冒頭に当方より紹介した『幸せな職場だけが変化に対応できる』についてご紹介します、(株)ハピネスプラネットCEOの矢野和夫氏は「幸せになる事」とは「ひとつのスキル」であり、これは訓練で身に着けられる事、身に付けた者同士『横の繋がり』により『応援し合う』と生産性の高い集団ができる事、それを目指し毎朝『20字のストーリ』を作り、あなた自身が『幸せ』に踏み出す事、周りを巻き込み明日を創る事を提唱されています。氏は日立製作所でAI技術分野のフェローをつとめ、長年蓄積した『ヒトの体の活性度』のビックデータで『組織の生産性・健康度の指標』について研究。その成果に基くプレゼンテーションに非常に感銘を得ましたので「今週の気付き」として共有させて頂きます。著書「予測不能の自在」(草思社刊)ではグラフィカルに可視化された『活性度』を見る事が出来ます、ご興味ある方は是非。次回も宜しくお願い致します、有難うございました。
  • 久恒先生、みなさま、本日は図解塾ありがとうございました。今月から再び梅棹忠夫先生の『文明の生態史観』に戻り、後半の図解を使っての講義。今回は「東南アジア」でした。東南アジアの国々は国名や地名、その他ニュースなどで聞く断片的な情報以外にあまり知る機会がなく、今回、はじめて歴史的な経緯や地理的な特色などを、梅棹先生の説に基づく久恒先生の図解でざっと読み解くことができました。ひとくちに東南アジアといっても、大陸部と島嶼部、4つの語群に分けられ、それぞれの国が実に多彩。インドネシアという、人口2億7千万人の、中国、インド、アメリカに次ぐ世界第4位の人口大国がこの地域にあるというところも、改めて印象に残りました。そして、東南アジアと東ヨーロッパは、どちらも準乾燥地帯の外側、湿潤地帯に属していて、似ているところが多い、という「比較」論も興味深く伺いました。西欧や米国などに比べ、日本から近い距離にある国々ですが、「あまりよく知らない」ということも分かり、自分自身、バランスを欠いているような感じも受けました。次回以降の『文明の生態史観』の仕上げに続き、『日本とは何か』『地球時代』と続いていくとのことで、楽しみです。
     
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「名言との対話」7月5日。メッケル「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れることは無い」
クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel、1842年3月28日 - 1906年7月5日)は、プロイセン王国及びドイツ帝国の軍人。明治時代前期に日本兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化の基礎を築いた。
明治政府は陸軍の近代化推進の一つとしてドイツ帝国兵学教官の派遣を養成した。「近代ドイツ陸軍の父」モルトケは、陸軍大学の兵学教官であった愛弟子のメッケル少佐を推薦し、メッケルは1885年に着任する。日本陸軍はフランス式から、これを機にドイツ式の兵制に切り替えていく。
陸大で参謀将校の養成の任にあたった43歳のメルケルは、秋山好古などの優れた卒業生を鍛えている。モルトケを継承した戦略思想と名人であった戦術の講義を展開した。そしてこの講義の聴講を広く開放したので、当時陸軍大学校の校長であった児玉源太郎も聴き入った。
メッケルは親しくなった児玉源太郎の才覚を高く評価し、「児玉は必ず将来日本を担う人物になるであろう」と語っていた。
メッケルの勅任後、ほぼ20年経って日露戦争が勃発した時、メッケルは「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れることは無い。児玉将軍は満州からロシアを駆逐するであろう」との予想を述べている。結果はその通りになったのである。海戦では秋山真之参謀を従えた東郷平八郎がロシア艦隊に完勝し、陸戦では児玉の活躍もあり乃木希典がロシアを破った。そういう意味では、自信満々でまた禿頭・髭面のため「渋柿オヤジ」との綽名をつけられたメッケルは日本の恩人であった。
さて、この小論を書きながら、当時の主役たちの関係を年齢という観点から考えてみたい。
メッケルは1842年生まれ。その師匠の大モルトケ参謀総長1800年生まれだから実に42歳の差がある。43歳のメッケルの来日時はモルトケは85歳だった。児玉源太郎は1852年生まれで、メッケルの10歳年下の33歳だった。日露戦争が始まった1904年には、メッケルは62歳、児玉は52歳であった。
児玉は満州奉天開戦での勝利後、長岡外史参謀本部次長に「もうそろそろ戦争をやめる時である。何をぐずぐずしているのか!」と叱った。日本の国力では、このまま続けていると必ず負けるという見通しであったから、有利な状況で戦争を終えるようにと考えていたのである。児玉は軍人である以上に、政治的判断もできる人物だった。
児玉は知力を使い果たしたのか、1905年に日露戦争を勝利に導いた後、1906年にあっという間に亡くなった。日露戦争は、陸軍、海軍の実戦の立役者だけでなく、外債を募り成功させた人物、ロシアとの終戦交渉を担った外交官など、当時の日本の国領の限りをふりしぼった。その中の一つが、メッケルの役割だった。
メッケル自身は少将まで昇任している。退任後は日本陸軍のドイツ留学生の個人授業を行った。そのメッケルは、児玉と同じ1906年に死去するという不思議なめぐりあわせであった。
明治の日本は、人材養成のために各分野に、なけなしの予算をつぎ込んでお雇い外国人を配置している。学問、軍隊、建築など、それぞれヨーロッパやアメリカから、一流の人物が働いていた。その光景の中に若きメッケル少佐もいたのである。日本は幸運だった。