五木寛之の「養生」論を学ぶ。

12月に入ってオーディブル五木寛之『シン・養生論』を聴いた。その後、『養生の実技』も聴く。妻の本棚にあった『養生の実技』の紙の本を読む。日刊ゲンダイで45年、1万回以上続く「流されゆく日々」連載を読んでみる。ラジオ深夜便の聞き逃し配信中のインタビューを3篇聴く。『致知』1月号の対談を読む。

やたらと五木寛之の名前と養生という言葉が目につき、耳につく。好む人が多いのであろう。私も五木寛之の「養生」論にはまりつつある。

以下、『養生の実技』(角川one テーマ)から。

この本は元々体が弱く「腰痛、腱鞘炎、偏頭痛」など病気をいくつも抱える作家・五木寛之が、自分自身の体を使って観察と実験を繰り返しながら得たものを紹介するものだ。この点が世に出回っている健康本と決定的に違う。エビデンスは自分の体である。実感的養生法だ。それを仏教の世界観と言葉で納得できるように説明してくれる。

この本は2004年、著者72歳の時の作品。五木は現在は90歳を越えてきているからさらに「養生」論は深っているようだ。

「治療より養生」「天寿を受け入れる決心」「心身一如」「病気に完治なし」「故障を起こさないようにするのが養生」「体の声を聴く」「益軒の『養生訓』」「『碧巌録入門』」「長呼気・短吸気」「養生とは生を養うこと」「噛んで飲む」「健康自慢はしない」「自分の足で歩く。自分の耳で音楽を聴く。自分の歯でものを噛む」「養生とはきょう一日の生命をいききと全うすること」「自然法爾」「おのずからなる働きが他力」「腹式呼吸」「東洋的体型の理想」「末端が大事」「膝は曲げる。腰は落とす」「臍下丹田」「易行」「2年で100寺」「天命と天寿」「法然はやさしく、親鸞は深く、蓮如は」ひろく」「ボランティアは布施行」「天寿を十分に生きることが養生の目的」

 

致知』1月号に愛知専門尼僧堂堂頭の青山俊董との対談が冒頭に載っている。互いに90歳を越えている二人の対談だ。

五木「下山の思想」「養生は趣味」「脚力、視力、嚥下力」「人生とは一日、一時間、一刹那」

青山「受け皿を伸ばす」「眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)という六根が、色声香味蝕法(しきしょうこうみそくほう)の六境を知覚することで、六識が生まれる。この全部を総合して食事をいただく」「一大事とは今日只今の心なり」

さて、「養生」である。病気の治療ではなく病を治めることが大事だと五木はいう。生を養うのが養生だ。生とは生命のことだろう。ここで思い出すのは、短歌の「写生」だ。自然を写すという意味に解釈していたが、斎藤茂吉の企画展で、茂吉が「生命」を写しとる」のが写生だと述べていて納得したことがある。写生も養生も、生命を対象としているのである。しばらくは20年近く先輩の五木寛之の「養生論」を追うことにしよう。

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「名言との対話」12月23日。広田弘毅「風車 風の吹くまで 昼寝かな」

広田 弘毅(ひろた こうき、旧字体:廣󠄁田 弘毅、1878年明治11年〉2月14日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の外交官、政治家。

福岡市出身。東京帝国大学法科卒業後、外務省に入省。1923年、欧米局長。オランダ公使、ソ連大使、外務大臣などを歴任。1936年の2・26事件後の組閣で首相に就任するが、翌年1月に総辞職した。第1次近衛内閣で外相に就任。戦後、A級戦犯となり極東国際軍事裁判で文官としてはただ一人死刑となった。70歳で没。

石屋の息子であった広田は東京帝大卒業まで、郷里福岡の玄洋社の国士・頭山満の援助を受けていた。本名の丈太郎から変えた弘毅とは論語の一句「士は以って弘毅ならざるべからず」から取っている。広い見識と強い意志力を持つという意味であろう。外相に就任したとき「協和外交」を標榜している。これは玄洋社の大アジア主義の流れであった。

私は2006年に福岡の玄洋社記念館を訪問した。「皇室を敬載すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」との三原則を基幹とした政治結社明治12年にこの名前になった。佐賀の大隈記念館で大隈外相を襲い条約改正を葬った来島恒喜がが玄洋社社員だったことを思い出した。玄洋社は、自由民権運動憲法の新設、国会の開設、祖国の国力伸張に奔走する。また屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基づくアジア民族の自決独立の援助を行う。孫文を助けるなど中国革命における玄洋社の存在は大きく第二次世界大戦終了直後まで日中平和工作を継続していた。記念館入り口の写真や関係者の名簿に度肝を抜かれた。当山満、広田弘毅中野正剛緒方竹虎、進藤一馬などそうそうたる人材を輩出している。1946年に玄洋社は占領軍により強制的に解散される。

2011年。新宿の「玄海」という1928年(昭和3年)創業の水たき専門店で高校の同窓会を行った。戦前には頭山満広田弘毅が愛用し、陸軍が起こした2・26事件ではここで謀議が行われたとのこと。店の入り口の「玄海」は頭山の書だった。私たちが楽しんだ部屋にも頭山の書が掛かっていた。

2016年に、 福岡市美術館で開催中のモネ展を観たとき、美術館の近くに広田弘毅像があり、また美術館の前庭には福岡市長の進藤一馬像があった。

2023年に福岡で訪ねた仙厓の「聖福寺」は、博多織の祖「満田弥三郎」、総理大臣「広田弘毅」、玄洋社を創業した「平岡浩太郎」の菩提寺だった。

城山三郎の名著『男子の本懐』は浜口雄幸井上準之助の物語で私も感銘を受けている。浜口首相の東京駅で暗殺事件は、幣原喜重郎広田弘毅、真珠王・御木本幸吉も、それぞれの立場で目撃していたことに驚いた。

城山三郎の「落日燃ゆ」でその生き方が世に知られた。私も熱心に読み感動した。恬淡として時代の要請に従って生きた。この広田の座右の銘は「物来順応」であった。勝敗を忘れ去り自然にままに動くという剣の極意からきている言葉である。

極東裁判ではA級戦犯として起訴された人の中でただ一人の文官だった広田弘毅は無言で通し死刑を言い渡された。その広田は絞首台で「自然に生きて、自然に死ぬ」と最後の言葉を述べている。恬淡として時代の要請に従って生きた広田の座右の銘は「物来順応」であった。勝敗を忘れ去り自然にままに動くという剣の極意からきている言葉である。城山三郎の『落日燃ゆ』でその生き方が世に知られた。戦犯容疑者の態度は見苦しかったというが、言い訳をぜず無言で通した広田弘毅の態度は立派だった。私も熱心に読み感動した。

冒頭の「風車 風の吹くまで 昼寝かな」は、風が吹くまでは昼寝をし、風が吹いてくれば世に立つという伸びやかな人生観を感じさせる。