『野田一夫の大いなる晩年』出版記忘年会を代々木で開催。立教大、多摩大、宮城大関係者たちと語り合った。
場所がわからずたどり着かなかった方もいたようだ。
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「名言との対話」12月22日。狩野享吉「文部省の方はやったつもりでいるがいいし、夏目(漱石)の方は貰わないつもりでいるがいい。それより他仕方あるまい」
狩野 亨吉(かのう こうきち、1865年9月17日(慶応元年7月28日) - 1942年(昭和17年)12月22日)は、日本の教育者。
秋田県大館市出身。帝国大学で数学科を卒業した後、哲学科に編入している。そこで英文科の夏目漱石と友人になる。四高教授(倫理学)、五高教頭、一高校長(34歳)として岩波茂雄、阿部次郎、安倍能成などを教え名校長とうたわれた。後任は新渡戸稲造である。京都帝大文科大学長(42歳)時代には内藤湖南、幸田露伴、西田幾多郎らを教授陣に招いている。44歳で依願退職。
以後「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げ古書にうずもれて暮らした。東北大学図書館に10万8千冊のを寄付し「狩野文庫」となっている。江戸時代の思想家安藤昌益の『自然真営道』を評価した発見者である。天津教の古文書「竹内文書」を批判という功績もある。
狩野享吉によれば「鑑定」とは「歴史の捜索を繰り返すこと」であり、世界を読む読書法であった。鑑定の方法は、分解的推理的で、実物を見て本を読み人に聞く、そして必要なら試験管を手に顕微鏡をのぞくような科学的方法をとっていた。幸田露伴が「狩野先生のところへ持っていくと何でもにせものになってしまう」と語っている。
「奥州・羽州には、しばしば 人間の蒸留酒 とおもわれるような人がいる」と述べた司馬遼太郎は、青森県の陸羯南、岩手県の原敬、宮城県の高橋是清、そして秋田県の狩野享吉、内藤湖南を挙げている。人間の蒸留酒は、「透きとおった怜悧さ、不都合なものへの嫌悪、独創性。精神の明るさ。独立心。名利のなさ。もしくは我執からの解放といった感じである。明治の薩長型のように、閥をつくってそれによって保身をはかるというところがいっさいない」との説明だ。狩野の説明は「明治期の非専門的な大知識人」である。
同時代の人々のみた狩野の人物像は、「器量が大きく、破格で、とてつもなく面妖で、かつ最も高潔だった文人」「国宝的人物」「意志の人」「狩野先生のような人物は再び出にくい、、などだ。
狩野享吉の言葉。
「自分は自分より若い学者の説はあまり尊重しないことにしている。アインシュタインを除いては」
「自分は危険思想の持主である」
「科学はあらゆる事物を相対的に見る」
万巻の書を蒐集した狩野は、一冊の著述も残さなかった。そして生涯独身だった。
親友の夏目漱石は学問・人格という面で狩野を最も尊敬していた。漱石は「学長や教授や博士輩よりも種類の違ふたエライ人に候」と評していた。漱石が死んだときに青山斎場で「友人代表の弔辞」を誰に頼むかということになったのだが、やっぱり狩野亨吉だろうと誰かが言い出すと、反対者は一人もいず、すんなり決まった。これまた狩野の徳であった。狩野は漱石の『吾輩は猫である』の苦沙弥先生、『それから』の代助のモデルといわれている。
こういう人物が江戸時代の春画や浮世絵の収集家だったのには驚いた。「春画蒐集にかけては日本一」であったようで、研究家は「浮世絵の秘画の収集は世界一最大」と評価している。
冒頭の言葉は、漱石の文学博士号辞退問題のとき、狩野が語った言葉である。文部省の形式主義と漱石の頑固さの中庸をとった。恬淡とした人物であった狩野は、白黒をつけるようなことをせず、互いの顔を立てる解決策を出している。こういう判断もできる不思議な人物である。
参考
青江舜二郎『狩野享吉の生涯』
松岡正剛「千夜千冊」