「知研読書会」ーー毎回必ずヒントやアイデアをもらえる貴重な時間

「知研読書会」の18回目。いつの間にか1年半たった。以下、今回も主宰の都築さんの丁寧な報告をお借りする。

■リンダ・グラットン/アンドリュー・スコット著 宮田純也・未来の先生フォーラム 監修 「16歳からのライフシフト東洋経済新報社(2023.😎
 最近ベストセラーになった「LIFE SHIFT」を高校生向けに書き直したもの。高校生にとって人生100年時代のことなどなかなか考えにくいが、この本では章ごとに問題を出して自分ごととして考えられるよう工夫されている。今の若い世代は昔のような「教育→仕事→退職」という3ステージの人生シナリオは無理で、4~5のマルチステージで生きていく。そこで大切になってくるのがお金に換算できない無形資産。

後の意見交換で、高校生に人生を考えさせるのに海外の本の翻訳では心に入りにくいのではないか、「新・孔子の人生訓」のように今の日本に合ったものの方が良いのではないかという考えも出ていた。

■稲田俊輔「お客さん物語」新潮新書(2023.9)
 南インド料理店の「エリックサラス」の総料理長が楽しくも不思議なお客さんの生態やお店の舞台裏を本音で綴っている。また、サイゼリヤ大戸屋ロイヤルホストスターバックスについてもそれぞれの特徴が語られ、後の感想では参加者からこれらの店を使った経験なども語られ、盛り上がった。
 資生堂の福原喜晴氏のお別れの会でもらったこの著書を読んで、本当の教養とは何かということを改めて感じた。また、人間の能力というものは想像しているよりはるかに大きいということを教えられた。

感想の交換では話が発展して、日本の江戸時代から明治時代の教育や、大学生の奨学金の話に至った。

五木寛之「養生の実技~強いカラダでなく」角川Oneテーマ新書(Audibleで)
 五木寛之「シン・養生論」幻冬舎新書(2023)
五木寛之は1932年生まれで91歳。今なお執筆活動を続け、日刊ゲンダイで毎日書いている「流されゆく日々」の連載は45年間続いており、11775回となっている。対談を生涯で数千人行ってきたとしている。そして現在も時代のホットコーナーにいるので自分は絶対に古くならない、という。五木氏は一貫して「養生」を語っている。「治療より養生」である。「故障を起こさないようにする」「自分の体に聞け」「自分の足で歩くこと、自分の耳で聞くこと、自分の歯で噛むこと、これが幸せ」。

◇この読書会を通して、いつも必ずアイディアのヒントをもらえる。次にどんな本が紹介されるか毎回楽しみである。★次回は1月25日(木)の予定。

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  • 書斎の棚のボックスの中身を整理し、必要でないものを廃棄。
  • 『図解コミュニケーション全集』第8巻の見本が届く。
  • 「旅」に関する共著に書く「人物記念館の旅」のゲラが届く。
  • 佐高信中村哲という希望』(旬報社)、森永卓郎『ザイム真理教』を注文。

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「名言との対話」12月28日。安達峰一郎「「自己に神性の衣をつけることーー自らを神格化することが裁判官の義務である」

安達 峰一郎(あだち みねいちろう、1869年7月27日明治2年6月19日〉 - 1934年昭和9年〉12月28日)は、日本外務官僚国際法学者メキシコ公使ベルギー大使、フランス大使を経て、アジア人初の常設国際司法裁判所所長。

山形県三辺町出身。15歳で上京し、司法省法学校を経て、東京帝大法学部仏法科を卒業。外務省に入省。日露戦争ポーツマス会議で小村寿太郎全権の随員として活躍。1908年、駐フランス臨時代理大使として日仏通商航海条約をまとめる。1913年、駐メキシコ公使。1917年、駐ベルギー公使、大使としてヴェルサイユ講和条約国際連盟の初会議で活躍する。

国際連盟下の常設国際司法裁判所の創設に貢献。国際連盟では1921年から1929年の総会では日本代表、1929年委は理事会の議長をつとめた。

1930年に常設国際司法裁判所の裁判官、1931年には所長に選出された。満州事変、国際連盟脱退の時期であったため苦労もあった。任期を終えた後、病に倒れ65歳の生涯を終える。オランダは国葬の礼をとった。葬儀はハーグの平和宮で行われた。

安達峰一郎記念館を訪問することができなかったが、手元に学士会報に掲載された小和田恒「七十年ぶりに帰った曽遊の地ーー安達峰一郎博士の肖像画」という論文があったので読んだ。2006年に安達の肖像画の除幕式のために準備した文章である。筆者は国際司法裁判所裁判官で、雅子皇后の実父である。

歴代裁判所長は肖像画が展示される慣例があったが、辞任直後の混乱でそうならなかった。それに小和田が気がつき、展示する経緯をが書かれている。

19歳の安達は「深く国際の法理に通じ、機変に処する秀才あるもの外交の衝に当たり、満腔の熱心を以て之に従事せざるべからず」と国際法を学ぶを述べていた。

国際連盟事務次長の新渡戸稲造は、ジュネーヴ議定書の審議で安達が日本代表として英仏を相手に論陣を張り、日本の主張を認めさせた現場を目撃し、「安達の舌は国宝だ」と絶賛した。岩手出身の新渡戸は7歳年下の山形出身の安達の活躍を喜んだであろう。

同僚の裁判官からは、鋭い洞察力と人物鑑定眼を備えており、裁判官的良心の持ち主と讃えている。安達自身は「自己に神性の衣をつけることーー自らを神格化することが裁判官の義務である」と述べていた。安達峰一郎は日本が生んだ最高の国際知識人、真の国際人であった。

裁判官は世界共通で黒い法服を着ている。黒という色はどんな色にも染まることはない。裁判官の校正さの象徴なのだ。因みに日本では国会答弁で「法廷が非常に手続きが厳粛にかつ秩序正しく行われなければならない場所であるということからいたしまして、一方ではその公正さと人を裁く者の職責の厳しさをあらわすとともに、他方では法服を着用することによりまして裁判官みずからそのような立場にあることを自覚させるもの」と説明されている。

人を裁くという恐れ多い行為は、本来は人間のなす業ではない。まして国際紛争を裁くという重責を担うには、安達峰一郎のいうように、神になった気持ちで透明な心をもって立ち向かうほかはないだろう。「神性の衣」は裁判官の黒い法服なのだ。