誕生日が1月3日であることーー母が生んだ日。長所と短所と忠告。同日生れの人たち。

1月3日が誕生日というのは、なかなか微妙である。

子供の頃は、元旦、書き初めと過ごし、やや倦怠感が出てきたときに、「そういえば、お前の誕生日だったね」と言われ、正月料理の余った食べもので、ついでのように祝ってもらっていた記憶がある。

社会に出てからは、年末に帰省し、4日からの仕事初めに備えて大分県中津市から東京に戻る日であった。だから1月3日は、朝早く起きて急いでしたくをして、汽車に飛び乗り、福岡空港から羽田へ。ようやく自宅に戻るともう夕刻で、疲れて寝てしまう。翌日、「そういえば、昨日は誕生日だったなあ」と想い出すということがずっと続いた。

最近は、東京で家族で祝ってもらうというパターンになっている。正月には家族が揃うことが多いのだが、本日も妻と娘と2人の孫から祝ってもらった。以前に比べると、祝われ方は増えているという感じはある。いずれにしても、正月が来るたびに思い出してはくれるので、忘れられることはないから、1月3日の誕生日は恵まれているのだろう。
亡くなった九州の母も毎年、行事にかまけて忘れることが多いようで、4日に電話をもらうことがよくあった。よく考えると、誕生日とは私が生まれた日ではなく、母が私を生んだ日なのである。母に感謝すべき日なのだ。その点は、最近気がついたが、毎年母への感謝を念頭に過ごすことにしたい。

ーーーーーー 

手元にある『愛蔵版 誕生日大全』(主婦の友社)によれば、1月3日生れは「困難な状況で発揮される意欲と創造力」とされている。

  • いい面:「活力と創造力」「若々しい」「流行や美に関する鋭い眼力」、、。「新しい事業を嬉々として立ちあげる」「改革を推進する」「人をその気にさせる」「構想力あり」「起業家精神」「直観力」「言葉に関する才能」「独自の道」、、、、、。
  • 短所は:「飽きっぽい」「虚栄心が強い」「自慢する」「自分に甘い」「怠惰」などがあげられている。
  • アドバイス:「忍耐力や責任感を持て」「計画とひたむきな取り組みを」、、。「手を広げすぎるな」、「晩年になって愛の大切さがわかるようになると人生の真実を悟るようになる」。短所をカバーすることを忠告しているように感じる。

人生の転機については、次の記述がある。17歳までは慎重だが18歳を過ぎたころから主体的になり自己表現意欲が強く、友情やグループ活動が大事な生活の要素になる。転機は48歳で、想像力が豊かになり、精神的なものへの興味が高まる。

実際は最初の転機は大学時代(18歳を過ぎてから)、次の転機はビジネスマンから大学への転職(47歳)なので当たっていることに驚いた。

ーーーー

思いたって、同じ誕生日の人を調べてみた。

こういう人たちの生き方は気になる。特に、坂本龍馬小林一三の生涯と名言には励まされる。6人の名言を並べてみると、何か共通項があるような気もするから不思議だ。

  • 坂本龍馬世の既成概念を破るというのが、真の仕事である」 
  • 小林一三下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしてはおかぬ」( B面サラリーマンとして成功したければ、まずサラリーマン根性を捨てることだ」「金がないから何もできないという人間は、金があっても何もできない人間である」。1月3日生まれだから、一三になった)
  • 河上丈太郎委員長は私にとって十字架であります」
  • 三岸節子画家は長く生きて成熟した作品を描くことこそが本領」 
  • 安藤太郎「経営の一番のキーポイントは情報処理。情報が不的確だと明確な企業ポリシーはできてこない」
  • 森村桂「開拓精神にもえ、実行力、独創力に冨み、やる気充分。但し、なまけもの」

ーーーーーーーーーーーーーー

夜:妹と弟に新年の挨拶。近々、兄弟会をやることになった。

ーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月3日。砂子義一ドライバーによって車の性能が変わる」 
砂子義一(すなこ よしかず、1932年9月23日 - 2020年1月3日)は、レーシングライダーレーシングドライバー

台湾高雄で出生。神戸や大阪で育つ。ヤマハ発動機の工員時代にバイクのスピード競争で勝ち、それがヤマハレーシングチーム監督の耳に入り、プロのライダーとして誘われる。レーシングライダーは2輪バイクのレーサーで、生身で活動するのでケガが多い。1951年の「富士登山レース」250ccクラスで初出場し優勝し注目を集めた。ヤマハワークスライダーとして世界GPレースなどで活躍する。

引き抜かれてプリンス自動車のワークスドライバーとなる。自動車レースのドライバーに転身し、4輪レーシングドライバーとなり、プリンス自動車のエースにのしあがる。プリンスが日産自動車と合併した後は、歴代のレーシングカーで勝利を積み重ねた。日産ワークスドライバーとして活躍した。

ひとつしかない命を賭けるレーシングドライバーは、世界の頂点を極めればモナコに豪邸が立つといわれる。自分のヘルメットカラーと同色のプライベートジェットでパリでもマイアミでもコート・ダジュールでも巡ることができるという職業だ。

砂子義一は「レースで勝って、(賞金で)外国行って、お姉ちゃんと遊ぶ。コレ、若さの秘訣!」とジョークで周囲を笑わせていた。

晩年の映像をみると、皮の黒の上下を着こみ、トレードマークの大きなロシア帽に白ふちのサングラス姿が多い。ロシア帽をかぶった華やかな石原裕次郎が、寅さんのようなべらんめえ調で啖呵を切っているようだとの評価もある。豪放磊落で女好きなことは誰もが知っているようだ。かくしゃくとしてユーモアあふれる語り口で、2輪車時代のライバルで、4輪車時代の仲間とのトークは笑いにあふれていた。

87歳で亡くなる。2020年の日産本社ギャラリーの追悼展では、1966年代3回日本グランプリの車、1964年第2回日本グランプリスカイラインGT(S54A-1型)、1964年日本グランプリで使ったプリンスグロリアスーパー6などが展示された。

「智彦がレーサーになろうとして、オーディションに受かったって、電話をくれたときに、俺がやってきたことをダメだとはいえなかったね」。息子の砂子智彦も有名なレーシングドライバーになっている。

最晩年のイベントで、スカイラインが「ドライバーによって車の性能が変わる」とオーストラリア人から言われたと喜んでいた。それほどのテクニシャンだった。

スピードに命をかける男たちの職業がレーシングドライバーだ。日本のモータースポーツ黎明期に、トップレーサーとして国内外で暴れまわった。その日本の黎明期の牽引者がレジェンド・砂子義一である。

ドライバーによって車の性能が変わる」 という名言は深い。性能は決まっているが、それを生かすのはドライバーだという意味だが、大事なのは「運用」であると言っているように私は感じる。規則は運用しだいでよくも悪くもなる。また組織内の仕事にしても、業務分掌は一定でも、担当した人によって、テリトリーは伸びた縮んだりする。実際は人しだいなのだ。砂子義一はテクニックと言ったが、これを私は「運用」という言葉に置き換えたい。