第2回・蜃気楼大学ーー「一日学長あいさつ」。午後:JAL時代の同窓会に参加。

久恒啓一(蜃気楼大学一日学長)
「蜃気楼」というまぼろしが、辰年の今年から形になっていく
 

現在は全世代が力を発揮する、「全員参加型社会」へ向かう途上にあります。世界は大国主導ではなく、あらゆる国々が新しい秩序への参加を模索しています。そして日本においても、様々な形で秩序の崩壊がみられるようになってきました。社会を構成する「個人」が主役になっていく過渡期を迎えています。

「蜃気楼」は、暖かい空気と冷たい空気の境目に現れる、光の屈折によってみえるまぼろしです。司馬遷の『史記』に、「蜃」の吐く「気」によって、「楼」があらわれ、その気の広がりによって「宮」ができる。そういう記述があります。

未来というものは、この蜃気楼と同じように、初めはあやしげで、はかなく、まぼろしのような姿で登場するものでしょう。

蜃気楼大学は、現在と未来の間に一日だけ立ち上がる、理想の大学を目指す楼閣です。昨年のメッセージでは、この大学は年を重ねるごとに、充実し、まぼろし感が薄れていくことになるでしょうとの期待を述べました。

「蜃」とは伝説上の想像獣である「辰」のことであり、龍(竜)のことです。2年目を迎える蜃気楼大学の今年の干支は「辰年」です。天災と人災で不穏な幕開けとなった2024年ですが、辰年明治維新日露戦争など、物事が動く変化の年といわれています。

新雑誌『イコール』(橘川幸夫編集長)の創刊など、いよいよ蜃気楼が確かな形としてその姿をあらわす年となります。

蜃気楼大学では「いきあたりばっちり」を標榜する未来世代中心の老若男女が織りなす昨年の参加者たちの幸福感あふれる熱気がさらに高まり、時代の最先端と最前線で躍動する「知」がさらに雄々しく前進するでしょう。未来を創る流れを一緒に創っていきましょう!

https://youjo.hp.peraichi.com/

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JAL時代の同窓会(国内客室乗員部)に呼ばれました。

川崎の八丁畷の「ともだちのいえ」(OBの松岡さんの店)

右から:浅山。中西。藤井。湯村。馬籠。松岡。

1.1万歩。

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半藤一利 写真 に対する画像結果

 「名言との対話」1月12日。半藤一利「昭和史の教訓ーー根拠なき自己過信と底知れぬ無責任」

 半藤 一利(はんどう かずとし、1930年昭和5年5月21日 - 2021年〈令和3年〉1月12日)は、日本ジャーナリスト戦史研究家作家。享年90。

文芸春秋社に入社。坂口安吾を担当する。「週刊文春」編集長時代はロッキード事件取材を陣頭指揮。「文言春秋」編集長。1993年『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞。専務取締役を経て1995年に退社し、「歴史探偵」を自称し作家活動に専念する。

1998年、『ノモンハンの夏』(大宅壮一の名を使った)で山本七平賞。2006年、『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞。2009年、語り下ろしの『昭和史1926-1945』『昭和史戦後編1945-1989』。2015年、菊池寛賞を受賞する。

私は半藤さんの本はよく読み、テレビの対談やインタビューも聞き、映画になった作品も見ている。昭和や太平洋戦争については、この人から学んだ。半藤の持論は「憲法9条を守るのではなく育てる」だった。

2014年にオーディオブックで、半藤一利『昭和史』(1926-1945年)34巻を全編聴いた。著者の半藤さんが語るのを聴くという講義スタイルなので、毎日少しづつ勉強するということになる。勉強と健康の一石二鳥である。

この「昭和史」は、終戦時に中学生だった半藤さんの実感も交えて、1928年(昭和3年)の満州某重大事件(張作霖爆殺事件)から始まった日中戦争の全過程、その延長線上に勃発する大東亜戦争への突入と1945年の敗戦に至るまでの激動の昭和の前半が語られている。この20年の過程で、日本人の死者の合計は310万人を数えるという惨憺たる結果になった。明治維新から日露戦争まで40年かかって築いた大日本帝国は、その後の40年で滅び焦土となった。

半藤一利は、この「昭和史」の教訓をあげている。総括すると、日本は「根拠なき自己過信」に陥っていた。「国民的熱狂をつくってはいけない」「抽象的観念論を好み、具体的理性的な方法論を検討しなかった」「タコツボ社会の集団主義の弊害」「終戦にいたる国際的常識を理解していなかった」「大局観・複眼的考え方がなく、対症療法、短兵急な発想に終始した」。日本は気がついたら、最終的に中国、米英、ソ連などほとんど全世界を相手に闘うということになってしまっていた。そしてこの大戦争は始めたはいいが、やめることは実に難しかった。

聴き終わって、軍部の暴走、マスコミの扇動、国民の熱狂、冷静さの喪失、責任者の無責任、人事の怖さ、世界情勢に対する感度不足、情報戦での敗北、、、など感ずるところが大であった。この昭和史は、日本人自身の陥りやすい欠点がすべて込められていると思う。

後半の『昭和史』(1945-1989年)も聴いたのだが、「戦前編」32巻と合わせて68巻になる。一つ30分としても34時間以上の時間がかかっている。約2カ月間、半藤節を通勤途上で聴いたことになるが、実に充実した時間だった。歴史に関するオーディオブックは、読み上げるアナウンサー口調だと無味であるが、その時代を生きた人物が語り下ろすという工夫は人間味があって楽しめる。

最後に「横町の隠居なりのお節介な忠言」として、今の日本(小泉内閣の末期の2005年から2006年にかけて)に必要なことを述べている。1・無私。私を捨てて努力と知恵を絞ることができるか。2・勇気。自分の組織から出て行く勇気を持てるか。3・大局。グローバル展望力を持つ、そういう勉強ができるか。4・自立。他国に頼らないで情報を得ることができるか。5・風格。大事を成すことができるか。

「日本型リーダーはなぜ失敗するのか」(文春新書)の最後の「あとがき」の最後に、「げに人のリーダーたるは難きかな、人に信頼の念を抱かせる人格形成は難きかな、なのである」と述べている。日本の軍隊はリーダー像をどのようにとらえていたのか。威厳と仁徳などの人格論に終始していた。しかし日本の軍隊はリーダーを補佐する参謀を重視し、陸大や海大は軍事オタク養成機関に過ぎなかったと喝破している。その参謀がやがてトップになっていくというしくみである。海軍大学校では「戦略・戦術・戦務・戦史・統帥権・統帥論」が72.8%。「国際情勢・経理・法学・国際法」といった軍政の授業は13.2%、「語学・日本史」などの一般教養は14%しかなかった。人格教育などはできていなかったらしい。それが太平洋戦争の敗戦につながっているという見立てだ。 リーダーに必要な世界観の醸成と人物としての修養に失敗したということだろうか。

辻正信にインタビューしている。大本営参謀は軍中枢部であるのはずだが、上層部の責任となっていた。半藤一利は実際に辻に会った後「辻は自分の責任を全く考えていない、絶対悪というものが存在するのならば、この男のようなものを言うのだろう」と厳しくみている。敗戦の原因が辻正信のいうとおりならば、とうてい総合力としての国力からみれば、戦争を起こすことはできるはずもなく、また勝つはずもなかった。 

 松本清張司馬遼太郎は様々な面で興味深い比較ができるようで、両方と近い関係にあった編集者で後に作家となった半藤一利は「清張さんと司馬さん」というエッセイをものしていた。ローアングルの清張はデビュー作から最晩年の「両像・森鴎外」まで一貫して鴎外に興味を持ったのに対して、ハイアングルの司馬は晩年には漱石を懐かしむようになったという分析だ。

 半藤一利原作の『日本のいちばん長い日』は、昭和天皇鈴木貫太郎内閣の閣僚たちが御前会議においてポツダム宣言を受け入れ日本の降伏を決定した1945年昭和20年)8月14日正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。岡本喜八の1967年版と原田真人監督の2015年版があり、私は戦後70年を記念した2015年版をみた。昭和天皇本木雅弘鈴木貫太郎首相は山崎勉、阿南陸相役所広司が演じたこの作品は、強い意思、狡猾さ、自己犠牲を持つこの3人のチームプレーで終戦となったストーリーとして描いており、話題になった。昭和天皇44歳、鈴木貫太郎首相77歳、阿南陸軍大臣58歳だった。何事も始めるのは簡単だが、終わり方は実に難しいものだが、戦争の場合は特にそうだと痛感した。1967年版では、切腹する直前に阿南陸相に「生き残った人々が、二度とこのような惨めな日をむかえないような日本に、、、なんとしてもそのような日本に再建してもらいたい」と語らせている。

 新宿区立漱石山房記念館がオープンしている。早稲田から歩いて10分。漱石が1907年の40歳から1916年に49歳で亡くなるまで住んだ場所だ。「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」「彼岸迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」「硝子戸の中」などの作品を書いた家である。名誉館長は半藤茉莉子。この人は漱石の五女の筆子の娘で、作家の半藤一利の妻である。

最近の半藤との縁を、以下ふり返る。

2021年『文芸春秋』3月号は「追悼!半藤一利」特集だった。9歳年下の保阪正康、40歳年下の磯田尚道らが、先輩・半藤を語っている。半藤のいう「根拠なき自己過信と底知れぬ無責任」、それを昭和史の最大の教訓と考えたい。戦後70年以上経って、この教訓をあらためて心に刻みたい。 

2022年。半藤一利保阪正康『昭和の名将と愚将』(文芸春秋)を読んだ。名将として以下の将軍をあげている。栗林忠道石原莞爾永田鉄山、米内光正、山口多聞、山下奉、武藤章伊藤整一、小沢治三郎、宮崎繁三郎、小野寺信、今村均山本五十六。そして愚将としては服部卓四郎、辻正信、牟田口廉也瀬島龍三、石川信吾、岡崎純、そして最後に、「特攻隊の責任者」として、大西瀧治郎富永恭次、菅原道大をあげている。愚将の最たるものという意味だろうか。

この対談によれば、不利が明白であり、後は人間爆弾を使った特別平気で攻撃するほかはないという海軍上層部の合意があった。山本五十六は「十死ゼロ生などというものを、上の指揮官は命令すべきでない。だから自分は認可しない」と反対していた。自決した大西を「特攻の生みの親」とする神話を組織的につかった形跡があるという。

海軍にあおられた陸軍の特攻作戦の責任者であった司令官の冨永は「君らだけを行かせはしない。最後の一機で本官も特攻する」と言っていた。そして菅原も同罪だとしている。

鹿児島の知覧特攻基地の跡に立つ平和会館には「こんな作戦をやる国が勝つわけがない。けれどいかざるを得ない」という遺書が多数あるとのことだ。

特別攻撃隊」というが実際は戦闘ではなく、自殺であり、玉砕作戦だったのだが、人為的に涙を誘うきれいな話になってしまっている。半藤と保阪の二人は、「特攻」は戦略、戦術の問題として、問われなくてはいけないと問題提起をしている。

大西瀧治郎は、遺書において、平和の時代に向けて「特攻精神」を強調している。その文章に前では、「最後の勝利を信じつつ、肉弾として散華した部下の英霊と邨家族に謝している。国の宝である若者を死地に追いやったが、生き残った人たちには自重を呼びかけているのだ。大いなる矛盾といわざるをえない。

学生時代に『わが命月明に燃ゆ』などを読んだ記憶が蘇ってきた。近々、鹿児島の知覧を訪れるので、このあたりのことを改めて考えることにしたい。

2023年8月。「半藤一利」展が、神保町の「昭和館」で開催されている。半藤さんは2021年1月に90歳で亡くなった。昭和館漱石の孫の未利子夫人から、遺稿や遺品の寄贈を受けて企画展を開催した。また図書室ではこの企画展の関連図書を展示。そして「半藤文庫」という書棚も設置している。「昭和史研究」をテーマとした半藤さんはおさまるべきところにおさまった感じがする。

  • 人生観「やると決めたことは忠実に最後までやる」。旧制浦和高校時代にボート部をやめてしまった事の反省。
  • 坂口安吾「史料と史料の間にある行間を読み解くことだ」。半藤は文芸春秋社の入社早々に親しくなった坂口安吾の弟子(自称)として「歴史探偵」を名乗る。
  • 伊藤正徳(海軍記者)との出会いと学びから「取材というのは、こちらがある程度知識がないとウソを言われてもわからない」と悟る。半藤は伊藤の『大海軍を想う』『軍閥興亡史』『帝国陸軍の最後』などの助手的役割を6年間果たし「昭和史」を猛勉強する。それが昭和史をテーマとする素地になった。

青年時代に関心をもった「昭和史研究」がライフワークとなり、半藤は「昭和の語り部」となっていく。1992年(62歳)に秦郁彦、横山恵一、戸高一成と「歴史探偵団」を結成し団長となり、海軍出身者、作家、歴史研究者、ジャーナリストなどを招く。スタート以来、そば屋で毎月のように開催された。65歳、専務で退職以降、実年期、熟年期を「昭和史」を探求する。2016年、2017年の写真には保阪正康が写っている。半藤亡き後は、9歳年下の保阪が団長となった。保阪は「昭和史を語り継ぐ会」(保阪正康のホームページ (hosaka-m-space.watson.jp))を主宰している作家で、「昭和史には人類の歴史のすべてが詰まっている」と言っている。半藤一利とともに私の敬愛する昭和をテーマとする人だ。

半藤の言葉からは、「昭和史の教訓ーー根拠なき自己過信と底知れぬ無責任」を採りたい。日本が凋落してきた平成から令和にかけての日本へのメッセージでもある。この教訓を噛みしめたい。