出光美術館「生誕300年記念 池大雅ーー陽光の山水」展。「照るといひ曇ると見るも世の中の人の心にありあけの月」

出光美術館「生誕300年記念 池大雅ーー陽光の山水」展。

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京都出身。江戸時代中期の画家、書家。1923年生まれ。妻は池玉瀾。15歳のころから篆刻を業とした。柳沢淇園の影響をうけ、文人画を独学する。日本各地を旅し、詩情豊かな作品をうみだした。日本の文人画の祖。1976年に54歳で死去。

代表作に「山亭雅会図」「楼閣山水図」、与謝蕪村との合作「十便十宜帖」などがある。「照るといひ曇ると見るも世の中の人の心にありあけの月」。同時代には与謝蕪村(1716-1784)、伊藤若冲(1716-1800)、丸山応挙(1733-1795)がいる。18世紀にはこういう画家たちが覇を競った。

池大雅の絵は、素朴、大らか、太く緩い線が特徴で、色づかいに優れ、見ていて楽しくなってくる。

旅と登山を好んだ池大雅は、白山、立山、富士山、浅間山にのぼり、絵にしている。

池大雅 中国の南宗画由来の文人画(南画)の巨匠である。文人とは学者兼画家。文人にとって、自分自身の本質すなわちその全人格的なものを表現する手段が文人画である。ドラッカー文人画を好んで蒐集しているのは、文人画と共にいればそれだけ自分自身について学ぶことになるからである。このことは千葉市美術館で知った。

「楼閣山水図屏風」(国宝)。総金地に群青、朱、青緑、金泥などの鮮やかな彩色が施された豪華絢爛な屏風。「先憂後楽」「偕楽」の精神が込められており、一橋徳川家の伝来の作品。池大雅は原本を模写し、拡大し、屏風にした。幸福感の漂う楽園世界。

「十便十宜図」は池大雅「十便図」と与謝蕪村「十宜図」の合作。自然の恵みを受けた生活の酒の肴の入手、詩が向こうからやってくるなどの便利さと、自然の素晴らしさを示す宜しきことをそれぞれが描いた作品。

「富士白糸瀧図」

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立川:整体(オステオパシー)。

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「名言との対話」2月19日。田代博「地図と富士山。このふたつが、私が生きていく柱です(笑)」

田代 博(たしろ ひろし、1950年3月25日 - 2021年2月19日)は、日本地理学者地理教育者。享年70。

広島県尾道市出身。東京教育大学理学部地学科地理学教を卒業。神奈川県立高校教諭となる。1997年から筑波大学付属高校教諭。2014年に退職後は、日本地図センターなどで仕事をする。2007年からはNHK高校講座地理の講師や4つの大学の非常勤講師も務めた。

日本国際地図学会功労賞、国土地理院から「測量の日」の功労者感謝状などをもらっている。

田代の研究分野として、「地図学」と「富士山学」があげられている。

富士山世界遺産国民会議の木村由理江のインタビューを見つけた。田代は私と同い年であり、興味深く読んだ。

まず「地図学」。世界を小さな一枚に凝縮して手のひらサイズにおさめる。古地図は昔の様子がわかるタイムマシンだ。つまり、地図には現在の空間と過去の時間が込められていると考えていたのだ。

次に「富士山学」。田代は「山岳展望マニア」であった。山頂に周囲の山の名前を示した看板をよく見かけるが、間違いが多いらしい。「山座同定」を仲間とやっていた。その延長線上に富士山が登場する。どこから富士山が見えるかという「富士山可視マップ」を山の雑誌「岳人」に掲載した。20都府県で富士山が見えることがわかった。日本全体で人口の3分の一の4000万人が富士山がみえるエリアに住んでいることがわかる。世界196カ国の中で首都から最高峰がはっきり見えるのは日本だけだ。「カシミール3D]を使うとダイヤモンド富士を眺められる日時がわかる。

富士山は見ると元気がでるという。高校教師時代には「日本一の高さを保っていられるのは膨大な裾野があるから」と、生徒たちを励ましていた。実に楽しそうな表情の写真が掲載されている。

富士山については日本史を通じて実に多くの人たちが、日記に書き、短歌や俳句を詠み、絵画にし、音楽にしてきた。写真という手段を用いて富士山に挑んだ人が「富士はわが命」といった岡田紅陽だ。19歳から77歳で亡くなるまで富士を命がけで追い続けた。現在の五千円札の裏側の「本栖湖の富士」は紅陽の作品である。

夏目漱石の「道楽と職業」を思いだした。道楽である間は面白いに決まっているが、その道楽が職業と変化するとたんに今まで自分本位であったはずが、一気に他人にゆだねることが多くなる。道楽は快楽をもたらすが、同じことをしているようにみえても職業となれば苦痛を伴うことになる。職業というものは、一般社会が本尊になるのだから、この本尊の鼻息をうかがいながら生活を送らざるを得ない、という見立てだ。岡田紅陽は、富士山を職業にしたから、苦労が絶えなかっただろう。

梅棹忠夫は何かにはまる人には、「通、好き者、道楽者、極道者」というランクがあるとしている。紅陽は「極道」の領域にまで達したのだろう。

田代の口癖は「私の生きていく柱は、地図と富士山だ」だった。そしてどちらも職業にしなかったから、気楽にいろいろなことがでてきるかもしれないと述懐している。田代博は、富士山を職業にしなかった。高校教師という本業をこなしながら、楽しみとして一生をかけて富士山を相手にしたのだ。田代は地図学に支えられた富士山学を道楽者として楽しんだのである。