新雑誌「イコール」創刊パーティで配るチラシが完成。

4月13日のパーティで配るチラシの作成で、力丸、都築両氏とやりとり。

説明がありません

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「図解塾」の準備。

「大全」執筆の検討。

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asahi.com(朝日新聞社):沖縄へ 終わりなき思い 井上ひさしさん未完の戯曲 - 演劇 - 舞台

「名言との対話」4月9日。井上ひさし「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ゆかいなことをまじめにかくこと」

井上 ひさし(いのうえ ひさし、1934年11月17日 - 2010年4月9日)は、日本小説家劇作家放送作家である。『吉里吉里人『ひょっこりひょうたん島。』

『青葉繁れる』は、著者の精神的故郷である仙台で少年時代に妄想ばかりしていた男の思想的半自叙伝を、すべての権威を相対化してしまうパロディ意識で描いた愉快な青春小説、と文庫の解説にある。ヒロインの若山ひろ子(第二女子高生)は、若き日の若尾文子だ。

2007年の「新装版あとがきに代えて」には、この小説を書いた理由が記されていていた。敗戦後、日本には三種類の大人がいた。

第一群「わたしたち大人はまちがっていた。そのまちがいを子どもたちの前で明らかにしながら、この国の未来を、彼らに託そう」。

第二群「わたしたちにまちがいがあろうはずがない。、、しばらくひっそりと息をひそめて復権の機会を待とう」。

第三群「今日の食べ物はあるのか」。

仙台の第一高等学校の先生たちはほとんどが第一群にあった人々だった。昭和20年代の後半から第二群の大人たちが「復古調」というお囃子にあわせて息を吹き返し、学校を子どもたちを管理する施設に仕立て直した。第一群の人たちが子どもたちを懸命に後押ししていた時代があったことを文字にのこしておきたくて、この小説を書いたとある。確かに先生たちの描き方には愛情がこもっている。青春小説の不朽の名作、というだけではなかったのだ。

 神奈川近代文学館の井上ひさし展」。仙台文学館の初代館長を9年つとめて、2007年3月に退任している。この文学館はいい企画をするのでよく通ったものだ。企画展で資料を眺める中で、この人の母親・マスが偉い人だったということを感じた。野口英世の母・シカ、田中角栄の母・フメ、遠藤周作の母、そしてヘレン・ケラーの母、世の中で名を成している人は母親が偉かった人が多い。父は文筆に関心があったが病没で叶わなかった。

 井上ひさしの遺した蔵書は22万冊にも及ぶ。それを生前から山形県川西町に1987年にできた「遅筆堂文庫」に寄付しており、そこでは1988年から2012まで生活者大学校が開かれ著名な人たちが講義をしている。遅筆堂とは、締切りギリギリニならないと台本が完成せず、関係者をハラハラさせることを自嘲した命名である。

「仙台に来る映画をすべて観よう」「日に三本の映画を観て、一日に約10-20枚の原稿書き、、」が若き日の自分に課したデューティだった。

「書き抜き帳」を用意して、本でも新聞でもなんでも、是は大事だと思うことは書き抜いていく。出典とかページ数とかも書いておく。そんな手帳が1年に5-6冊。一種の「知的日録」。情報のポケットをひとつだけにする。中身を単純に時間順に並べる。井上ひさしの知的生産の技術である。妻であった西館牧子は「下調べの丁寧さ、字のきれいさ、それを越える陽気な顔と愛嬌かな、と井上さんは自分を分析していた」「古本あさりと図書館での勉強ぶりは鬼気迫るものがあった」「風呂場でも本を読む習慣があり、そのため湯気が出ないようぬるい温度にして入る」と観察している。

 井上没後に西舘好子さんが書いた『』井上ひさし協奏曲』を興味深く読んだ。この本のオビには「誰も知らない「井上ひさし」がここにある」と書いてある。「都会と田舎、笑いと哀しみ、才能と狂気、妻と夫、出会いと別れ、生と死、、、。すべては表裏一体、あんなにもつらく、楽しかった25年間ともある。この本を読み終えて、このオビがすべてを語っていると感心した。好子さんは「「世の中に新しいことを」と言う井上さんは、もっとも古い日本の男だった」と結論付けている。

昭和8年生まれの伊丹、10年の大江、9年の井上ひさしは、「焼け跡世代」と呼ばれている。皇国教育から民主教育への大転換を子ども時代に体験したから、彼らは日本国憲法を護る立場で奮闘する。一方で井上ひさしは、私生活では明治の男であったとのことだ。

  井上ひさしは 「一番大事なことは、自分にしか書けないことを、誰にでもわかる文章で書くということ」を自分に課していた。冒頭に掲げ言葉は井上ひさし文学の真骨頂だ。誰でも書けることを、誰にもわからない文章で書くことはやめることにしよう。

以下、没後の私の「井上ひさし」体験。

2011年。 井上没後に西舘好子さんが書いた『』井上ひさし協奏曲』。

井上ひさしと知り合い、結婚し、彼の才能を育て、劇団をつくり、そしてその過程で、最強の同志となり、また憎まれて最後に家族がバラバラになるという哀しい結末を迎えた筆者が、時効となった狂気の宿った天才との実生活の物語をすべて書いた出色の井上ひさし論である。

嫌いな作家は「醜さを公然とさらし、破滅無頼を気取り、それを「生きる」と称している輩」である、織田作之助坂口安吾太宰治だったそうだ。

孤児院、勤勉、遅筆、家族愛を知らない、暴力、離婚、家族の反目、、、、。

愛と憎しみの物語は省いて、裏から見た井上ひさしの仕事の秘訣について抜き書きしてみたい。

  • 読んで、考えて、書いて、正しい規律の生活を送り、プロの作家として認められるようになるのが人生の「合格」の目的だった。
  • ひょっこりひょうたん島」の登場人物は、当時流行の外国映画や「リーダーズ・ダイジェスト」の世界のニュースからヒントを得ていた。事件や政治のパロディー、冗談や落語などからネタを仕入れていて、旬の話題を採りいれることを忘れなかった。
  • 取材に走るのでなく、資料を綿密に読み込み、想像力で虚構の世界にのめり込んでいくというタイプの作家であった、、、
  • 「評伝」はもっとも得意とした分野で、素材を見つけるために読まれる日記は、ほぼ完璧に近い読み込み方だった。
  • 事実から想像を膨らませ、物語を作ってはぶち壊し、作ってはぶち壊して練っていく。、、、どんな有名人や偉人でも渦の中に巻き込んで井上戯曲ができあがるのだ。

井上ひさしの死を疎遠になった三女から連絡を受けたが、葬儀には長女も本人も参列を許されないところから始まり、最後は父から疎まれた長女の回想で終わる構成もよくできており、編集者の冴を感じる本だ。
全編を読み終えた後、「表裏 井上ひさし協奏曲」というタイトルにも深く納得した。

2012年。仙台文学館で開催中の「井上ひさし安野光雅ーー文学と絵画の出会い」展を観る。作家と画家のコラボ企画は珍しい。井上ひさしの小説の表紙や挿絵を安野は「吉里吉里人」など60冊以上の手がけている。

2013年。神奈川近代文学館で開催中の「井上ひさし展」。井上ひさしは、『吉里吉里人』ひょっこりひょうたん島』などで馴染みのある作家だ。仙台文学館の初代館長を9年つとめて、2007年3月に退任している。この文学館はいい企画をするのでよく通ったものだ。

母親・マスとの手紙のやり取りでわかる。涙が出る。仙台の児童養護施設ラ・サール・ホーム(光ヶ丘天使園)などにいた当時の母親との手紙が展示されている。
「私も元気に土方の道に精進します。土方とは地球の彫刻家だそうですから、安心しました」「映画の友社あきらめずに毎月投書しなさい。どんなことでひさしちゃんの運命が善展するかわかりません。、、君の文才には大きなる期待をかけて居ります。紙よいとし子を守りなせ」「なあ、この世はちゅうもんは、わしには水晶みたいな階段じゃなかったぞ、、」

入り口の映像では、そもそも動物には笑いがない。笑いは人間が外でつくるしかない。そしてそれを共有する。それが最大の仕事だ。哀しみなどを忘れさせるにが精いっぱいの抵抗だ、という井上が主張している。

井上ひさしの言葉。

  • 自分を大切にしていれば私の本来の目的の、ほんとに日本人の新劇も書けるでしょう」
  • 、、華々しいようですが、一字一字書かねばならないことを考えると死にたくなります。

5歳で失った父親の影響は本だった。「父親の遺した本の山の前に立つたびに、わたしは生命の連続性ということに思い当たる」。井上ひさしの遺した蔵書は22万冊にも及ぶ。それを生前から山形県川西町に1987年にできた「遅筆堂文庫」に寄付しており、そこでは1988年から2012まで生活者大学校が開かれ著名な人たちが講義をしている。

売店で『本の運命』『作文教室』『青葉繁れる』を購入。本の読み方十箇条。以下、参考になった部分。

  • 「索引は自分でつくる」:本の扉とか見返しに、大切だということがら、言葉をずーとならべて、それが出てきたページを書いておく。、、大事な本はそうやって読む。引用もすぐできるし、あとでとても役に立ちます。
  • 「本は手が記憶する」:「書き抜き帳」を用意して、本でも新聞でもなんでも、是は大事だと思うことは書き抜いていく。出典とかページ数とかも書いておきます。そんな手帳が1年に5-6冊。一種の「知的日録」。情報のポケットをひとつだけにする。中身を単純に時間順に並べる。
  • 「本はゆっくり読むと、速く読める」:最初の10ページくらいはとくに丁寧に、登場人物の名前、関係などをしっかり押さえながら読んでいく。そうすると自然に速くなるんですね。
  • 「専門書は、目次を睨むべし」
  • 「大部な事典はバラバラにしよう」
  • 「個人全集をまとめ読み」:ダイジェスト、索引、そして著者の言葉遣いや書き癖について気がついたことを小まめにメモしていく。読み終わったときには、評伝や作家論が欠けるぐらい、充分な資料が自然に抽出されている寸法になる。

井上ひさし 作文教室」から。

  • 自分にしか書けないことを、だれでもわかる文章で書くということだけなんです。(だれでも書けることを、だれにもわからない文章で書いている人がいる)
  • 自分を指す人称代名詞は、ほとんどの場合、全部、削ったほうがいいんです。
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2020年。世田谷文学館「没後10年 井上ひさし展ーーー希望へ橋渡しするひと」。井上ひさしは、仙台時代によく通った仙台近代文学館の初代館長だったことを思い出しながら、そして宮城県大崎市吉野作造記念館の名誉館長だったのは、仙台一高の後輩だったからか。井上ひさしについては、企画展、小説、エッセイ、演劇などで、持っている情報は豊富だと思っていたが、館内をまわると、また新しい情報を得ることができた。

井上ひさしの創造世界(ユートピア)」特集の『東京人』最新号、そして『自家製 文章読本』を購入した。

以下、会場でメモした言葉と、会場で買った『井上ひさし展』から、井上ひさしの言葉をピックアップする。

・本の読み方十箇条:「オッと思ったら赤鉛筆」「索引は自分で作る」「本は手が記憶する」「本はゆっくり読むと速く読める」「目次を睨むべし」「大事な事典はバラバラにしよう」「栞は一本とは限らない」「個人全集をまとめ読み」「ツンドクにも効用がある」「戯曲は配役をして読む」。

・作文教室:文章とは何か。これは簡単です。作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね。だからこそ、書いたものが面白いというのは、その人にしか起こっていない、その人しか考えないこと、その人氏しか思いつかないことが、とても読みやすい文章で書いてある。だから、それがみんなの心を動かすわけです。

・文章を書くときの心得:1なによりも一つ一つの文を短くすること。2一般論は絶対に書くな。常に自分を語れ。だれにも書けないことを、だれにも分かるように書く。3主語(S)と述語(V)はなるべく近くに置く。4文の基本形は次の三つしかない。何がどうする(犬が歩く)。何がどんなだ(海は広い)。何がなんだ(彼は会社員だ)。文章を書くときに、この三つのどれにあたるか、つねに確認する。

・演劇そのものが、つまり舞台のそれ自体が絵画であり、音楽でもあり、彫刻でもあり、詩でもあると感じました。演劇はすべてを備えている表現のこと。

・言葉を選ぶときも、私は主に大和言葉を使っています。「洗う」「洗濯する」「クリーニングする」、、自分の皮膚感覚に訴えてくる大和言葉で話し、考えたほうがいいと思います。

・まだ調べのついていないところを空想力と想像力でがばと押しひろげて芝居にする。

・大問題の前に、周縁部の人間や市井の普通人を立たせると、一気に喜劇の要素が立ち上がる。

・「平和を守れ」というかわりに、「この日常を守れ」という。

・日常の中に楽しみを、そして人生の目的を見つけること。

・自分の好きなもの:「大根おろしをのせた炊きたての御飯」「湯呑から立ち上る煎茶の香」「洗濯物を嗅いだときの陽の匂い」「雨上がりの木々のあざやかな緑」「わが子の寝顔」「なにか食べているときの妻の顔」「なにも書いていない原稿用紙の束」「稽古場に差しこむ光の中に浮かぶ埃」「成功した芝居の休憩ロビーのざわめき」「自作新刊本の手ざわり」。

「没後10年」ということで、昨年末から全国のゆかりの地で「井上ひさし展」が開催されている。鎌倉文学館、遅筆堂文庫、仙台文学館吉野作造記念館、市川氏文学ミュージアム世田谷文学館

井上ひさしという希代の大作家に関する企画は、今後も続いていくだろう。

 

 

 

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