「有限と無限」ーー小椋佳の人生と、私の「名言との対話」

埼玉県川口市・シクラメン - 草花(11月撮影) - 無料写真素材 - あみラボ

ラジオ深夜便小椋佳(1944年まれ)の数年前のインタビューを流していた。

彼は49歳まで第一勧銀の銀行マンとして仕事をし、一方で日記をつけるように歌をつくっていたが、それがたまたまヒットしていく。その間、組織と個人の葛藤はあったものの、「銀行は寛大に無視してくれた」、と語っていた。この人は自然体の人だ。

そういえば、1997年に開学した宮城大学に翌年夫妻で訪問してもらったことを思いだした。野田一夫学長に会いに来たのだ。夫妻を私が学内をご案内した。翌日、小椋佳と野田先生はゴルフに出かけ、野田先生はホールインワンを達成した。人生2度目である。1度目は50歳の時に、城山三郎とまわった時だという。先生の腕前は私とチョボチョボだったから、ついている人は違うなあと感心したことがある。

さて、このラジオで、小椋佳は、銀行での仕事は「有限」の中から最適と思われる解決策を選択することであり、作詞作曲は「無限」の言葉や音の可能性の中からの選択だった、と発言していた。

自分の場合はどうだろうか。「有限と無限」をキーワードに考えてみよう。私は47歳までは「公人」としては企業のビジネスマンだった。仕事は同じく有限の選択肢の中で選択して問題の解決にあたっていた。その間、「個人」という側面では知研という場で、仲間と知的生産に関する修行もしていた。この辺りは、小椋佳と同じである。

47歳で転身し大学教員になって、公人としては「教育」と「運営」という仕事がメインとなった。「研究」については半分は出版社という他から要請、半分は自分の希望で、著作を量産することになった。これは、「半他半自」とでもいう時代だった。

そして数年前に公人という制約を脱した今は、時間を自由に使って、知的生産にいそしんでいる。最近は「連作と大作」をテーマにしているのだが、それとの関連で毎朝ブログに書くことが習慣となっている。それはもう7000日を越えており、途中で始めた「名言との対話」も3000日を越している。ブログは日誌であり、そして日記である。

「名言との対話」はその日に亡くなった人や生まれた人を選んでいる。今では弔辞、蓋棺録、墓碑銘といった色彩が強い人物論になっている。

命日と誕生日という視点で選んでいるから、どんな人があらわれるかわからない。職業、男女など、こちらの好みは許されない。難しい面もあるが、「今日はどんな人に会えるだろうか」との楽しみもある。

対象の人物は、日本の近代から現代の人であり、江戸後期の文化文政時代以降なので、「無限」であるといってもいい。一方で、その日にあらわれる人物は、例えば「明治命日編」など年によって時代区分を決めていることもあり、一日一人であり、「有限」といういうより、むしろ強制的に「限定」されることになる。「一日一殺」であるから、集中してなんとか続いている。

この活動をある人は「修行僧みたいだ」と言った。この修行を続けることで200年を越える膨大な時間と日本全国という広大な空間の中を旅をしている感じがある。いわば「日本近現代史の旅」である。早朝に一人の人物と向きあう時間では、人物論、人間学、日本人論を学んでいるとの幸福感に浸ることもある。

無限の時空の中から、歴史の中に生きる特定の人物から、自分のことを書け、書けるかと挑まれている感覚もある。その課題をにらみながら情報を集め、脳力を振り絞ってなんとか書いてるのである。

歴史と地理の交点という有限の一点を見つめて崖っぷちを歩きながら、遥か彼方に無限の世界が広がってることを感じるようになった。テーマが深まっていくこの過程で、歩むべき道が見えてくる。ライフワークとはこのようにしてあらわれるものかもしれないと感じている。

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「川柳まつど」4月へ12句を投稿。

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「名言との対話」4月12日。ペギー葉山「すべてが、つながっているんですよ。、、、私の人生って、『歌の扉』があって、それを開けると、また次の『歌の扉』があって、という、そういう運命的な歌の神様に導かれたような気がするの」

ペギー葉山(ペギーはやま、本名:森 シゲ子(もり しげこ)旧姓:小鷹狩(こたかり)、1933年12月9日 - 2017年4月12日)は、日本女性歌手タレント

ペギー葉山のヒット曲には「南国土佐を後にして」「ドレミの歌」「学生時代」「ラ・ノビア」「ふるさと」「花は咲く」などがある。本名・小鷹狩繁子の家は音楽に囲まれた一家だった。都会的で上品で知性のある甘いフィーリングで歌うペギー葉山命名は、マーガレットの愛称である「ペギー」に、御用邸がありいい感じのサウンドの「葉山」をくっつけたものである。

門田隆将『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(KADOKAWA)を読んだ。

 「南国土佐を後にして」は、中国戦線で戦った作者不詳の兵士の作で、土佐出身者で構成された鯨部隊の兵隊たちが中国の曠野で歌い継いだ「南国節」を、戦後、この詠み人知らずの戦場の望郷の歌を武政英が発掘・編詩し、補作編曲し、ジャズ歌手だったペギー葉山が高知テレビ開局記念番組でが歌い、大ヒットした歌である。

「南国節」は「中支にきてから幾年ぞ」「月の露営で焚火を囲み」「俺も自慢の声張り上げて」「国の親父は室戸の沖で」「俺も負けずに手柄をたてて」という男の歌だった。その歌詞を「都へきてから幾年ぞ」「思い出します故郷の友が」「月の浜辺で焚火を囲み」「わたしも自慢の声張り上げて」「国の父さん室戸の沖で」「わたしも負けずにに励んだあとで」と女歌に変えたのだ。

ペギー葉山ジャズ歌手であり、歌うことを渋ったが、ジャズのフィーリングで、アルトのペギー節で歌って欲しいというNHKの妻城良夫プロデューサーの申し出に乗ってしまったのだ。その結果、この歌は戦後最大のヒット曲と言われるまで日本人の心に響いた。この歌を歌うペギー葉山の姿はテレビでよく見たし、その歌声もよく聞いたのだが、このような歴史やエピソードがあることは知らなかった。

その後、当時35歳の三島由紀夫から、ロサンゼルスに行くならニューヨークのブロードウェイでミュージカルを見ることを勧められた26歳のペギーは「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」に感動する。ホテルでに日本語への翻訳を試みる。その結果、ドは「ドーナッツのド」、レは「レモンのレ」。ミは「みんなのミ」、ファは「ファイトンのファ」、ソは「青い空」、ラは「ラッパのラ、シは「しあわせよ」の歌詞ができあがった。この「ドレミの歌」は小学1年生の音楽の教科書に採用され、誰でも知っている歌になっていった。

ペギーの夫は10歳ほど年上の俳優の根上淳である。二枚目スター、悪役、渋いわき役をこなす名優だ。

「歌を?なんでやめなきゃいけないんだい」という言葉は、プロポーズの時に仕事を辞めたくないというペギーに対しての根上の返事だった。続いて 「村の文化祭のスターならともかく、立派なプロの歌手のあなたがやめる必要なんかないだろう。それにこれからの女性は社会とのつながりが必要だよ。どんどん女は仕事すべきだよ」と言ったそうだ。それが決め手になった。

根上42歳、ペギー32歳での結婚である。本名は森不二雄と森繁子。同姓だ。そしてどちらも東京中野生まれ。年下の江利チエミは「おめでとうペギー! あなたの旦那様、私の初恋の人なのよ。私の大切な人を幸福にしてくれなきゃ承知しないわよ。アハハハ、、、」と二人の結婚を祝福した。二人はおしどり夫婦として有名だった。それを証明する夫婦の共著『代々木上原めおと坂』では、根上淳は妻を「信頼できる同志、戦友、上官殿」と語っている。

歌は慰みである。歌は励ましである。歌は教育である。この歌を歌うことを仕事にして多くの人の心に灯火をつけたペギー葉山は、「とても幸せな人生だったんだな」と述懐しているのだ。私たちの人生行路にはいくつもの大小の扉がある。その扉を思い切って開けると違う世界が目の前に広がる。その連続が人生ということになる。後から振り返ってペギー葉山が言うように「すべてが、つながっている」と思えるようなら、幸せな人生だったということだろうか。