門田隆将の『奇跡の歌--戦争と望郷とペギー葉山』(小学館)を読了。

 高知県生まれの作家・門田隆将の『奇跡の歌--戦争と望郷とペギー葉山』(小学館)を読了。この人は「人物」をテーマとしたノンフィクション作家だ。

『この命 義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』、『甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ髙畠導宏の生涯』、『なぜ君は絶望と闘得たのか 本村洋の3300日』、『死の淵を見た男、吉田昌郎福島第一原発』などがある。人物ノンフィクションを少し読んでみよう。

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大分県中津市耶馬溪で土砂崩れのニュース。近所の住民たちのインタビューで聞いた「たまがった」「行っちょる」などの地元の方言が懐かしい。何人かの友人から「大丈夫?」との連絡があった。中津が耶馬溪町を合併してから災害のニュースが多くなった。

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「名言との対話(平成命日編)」4月11日。ペギー葉山「すべてが、つながっているんですよ。、、、私の人生って、『歌の扉』があって、それを開けると、また次の『歌の扉』があって、という、そういう運命的な歌の神様に導かれたような気がするの」

ペギー葉山(ペギーはやま、本名:森 シゲ子(もり しげこ)旧姓:小鷹狩(こたかり)、1933年12月9日 - 2017年4月12日)は、日本女性歌手タレント

ペギー葉山のヒット曲には「南国土佐を後にして」「ドレミの歌」「学生時代」「ラ・ノビア」「ふるさと」「花は咲く」などがある。本名・小鷹狩繁子の家は音楽に囲まれた一家だった。都会的で上品で知性のある甘いフィーリングで歌うペギー葉山の命名は、マーガレットの愛称であるペギーに、御用邸がありいいサウンドの葉山をくっつけたものである。

 「南国土佐を後にして」は、中国戦線で戦った作者不詳の兵士の作で、土佐出身者で構成された鯨部隊の兵隊たちが中国の曠野で歌い継いだ「南国節」を、戦後、この詠み人知らずの戦場の望郷の歌を武政英が発掘・編詩し、補作編曲し、ジャズ歌手だったペギー葉山が高知テレビ開局記念番組でが歌い、大ヒットした歌である。

「南国節」は「中支にきてから幾年ぞ」「月の露営で焚火を囲み」「俺も自慢の声張り上げて」「国の親父は室戸の沖で」「俺も負けずに手柄をたてて」という男の歌だった。その歌詞を「都へきてから幾年ぞ」「思い出します故郷の友が」「月の浜辺で焚火を囲み」「わたしも自慢の声張り上げて」「国の父さん室戸の沖で」「わたしも負けずにに励んだあとで」と女歌に変えたのだ。

ペギー葉山はジャズ歌手であり、歌うことを渋ったが、ジャズのフィーリングで、アルトのペギー節で歌って欲しいというNHKの妻城良夫プロデューサーの申し出に乗ってしまったのだ。その結果、この歌は戦後最大のヒット曲と言われるまで日本人の心に響いた。この歌を歌うペギー葉山の姿はテレビでよく見たし、その歌声もよく聞いたのだが、このような歴史やエピソードがあることは知らなかった。

その後、当時35歳の三島由紀夫から、ロサンゼルスに行くならニューヨークのブロードウェイでミュージカルを見ることを勧められた26歳のペギーは「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」に感動する。ホテルでに日本語への翻訳を試みる。その結果、ドは「ドーナッツのド」、レハ「レモンのレ」。ミは「みんなのミ」、ファは「ファイトンのファ」、ソは「青い空」、ラは「ラッパのラ、シは「しあわせよ」の歌詞ができあがった。この「ドレミの歌」は小学1年生の音楽の教科書に採用され、誰でも知っている歌になっていった。

歌は慰みである。歌は励ましである。歌は教育である。この歌を歌うことを仕事にして多くの人の心に灯火をつけたペギー葉山は、「とても幸せな人生だったんだな」と述懐しているのだ。私たちの人生行路にはいくつもの大小の扉がある。その扉を思い切って開けると違う世界が目の前に広がる。その連続が人生ということになる。後から振り返ってペギー葉山が言うように「すべてが、つながっている」と思えるようなら、幸せな人生だったということだろうか。

 

奇跡の歌:戦争と望郷とペギー葉山