NPO法人知的生産の技術研究会のZOOM幹事会。ラジオで小椋佳の人生観を聴く。

NPO法人知的生産の技術研究会のZOOM幹事会。6月から2か月ぶり。

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都庁への令和2年度の活動報告の説明。今後の活動についての意見交換。10月からセミナーを行いながら、組織、人事、活動を相談していくことになった。
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ラジオ深夜便で歌手の小椋佳(1944年生)のインタビューを聴いた。

70歳の古希で生前葬コンサートを開いている。77歳の喜寿を迎え、体力に自信がない状態だが、11月から記念の全国ツアーを予定で、それを機会に引退する。

大企業で汚れながら「創造的表現者」であろうとし、シンガーソングライターでもあった小椋佳が、第一勧銀での銀行マン生活を辞めたのは49歳。「平家物語」の最後の平知盛「見るべきほどのことは見つ」という心境だったそうだ。この点は、本社の奥の院を覗いた私がJALを辞めた47歳の時の心境と同じだったことに共感した。「見るべきほどのこと」はみたという心境だった。

小椋佳は50歳から母校の東大法学部に学士入学。「わかる」という感覚があり、1年で単位を取得しさらに文学部の大学院を受験し合格。計6年の大学生生活を送る。1997年に開学した宮城大学小椋佳夫妻が野田一夫学長に会いにみえた。このとき私は学内を案内している。ちょうど、小椋佳の再度の学生時代だったのだ。翌日、ゴルフを一緒に回った70歳の野田学長はホールインワンという快挙を達成している。

新しい歌、新しい言葉でないと意味がない。そういう「創造」を課している自分自身の評価も厳しくなっているので、きついそうだ。

小椋佳は、青年期は銀行員。50歳前後の「中年の危機」は大学生に戻って勉強することで乗り切っている。60代半ばからの壮年期を経て、80歳の実年期を終える年齢で、引退するといいうことになる。56歳以降の動きをもう少し調べたい。

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「名言との対話」8月20日司葉子「パパは私にとっては最高の先生であり便利屋さん」

司 葉子(つかさ ようこ、1934年(昭和9年)8月20日[1] - )は、日本の女優。本名は庄司洋子。

鳥取県境港市生まれ。共立女子短大在学中にメイ牛山により『家庭よみうり』の表紙を飾ったことがきっかけで東宝と契約。俳優の池辺良のスカウトだった。

実家は大庄屋。「庄司の一門から河原こじきを出したとあってはご先祖様に顔向けがならん。あえてこれを行おうというのなら、未来永劫縁を断つ」との本家から。

『君死に給うことなかれ』(1954年)で映画デビュー。1966年、映画『紀川』で第40回キネマ旬報賞主演女優賞、第9回ブルーリボン主演女優賞など、その年の演技賞を独占した。1969年、元衆議院議員相沢英之氏と結婚。1999年、日本大正村の村長に就任。2003年、紫綬褒章を受章。

35歳、大蔵官僚相澤英之(1919年、大分県宇佐市生まれ)と結婚。葉子は35歳で15歳の年齢差で相澤は再婚。相澤からは「家事だったら誰がやってもキミより上手にやれるだろう、それより、キミにしかできない仕事があるはずだ」といわれる。相澤は大蔵次官の後に、葉子の出身地から衆議院議員選挙に立候補し当選。葉子は「毎朝鏡に向かって、今日の舞台がはじまるつもりで丁寧にお化粧した」。9期つとめた。経済企画庁長官。84歳からは弁護士。2009年からは東京福祉大学学長となるなど生涯現役だった

2019年4月に夫は99歳の長寿で他界する。数万冊の移動式書架が12列並ぶという膨大な蔵書が地下の書庫に残った。

岐阜県恵那市に、2代目村長に就任していた日本大正村内に2021年3月28日に公益社団法人日本大正村司葉子記念開館が開館。建物は鉄骨2階建ての洋館で、衣装や装飾品、写真、出演作のポスターなど300点余が展示されている。初代村長高峰 三枝子で、3代目は竹下景子だ。

2018年発刊の2人の共著『人生100歳「一日生涯」』(双葉社)を読んだ。相澤が満98歳、数えで99の白寿。そして葉子は83歳。

相澤はゴルフ、乗馬、ヨット、モーターボート、囲碁3段、将棋5段、剣道初段、ビリヤード、清元、浪花節、カラオケ、写真と多趣味で、映画や演劇にも詳しかった。「パパは私にとっては最高の先生であり便利屋さん」と語っている。政治、経済、世界情勢、何でも知っているし、打てば響くように答えが返ってくる。そして「決して面倒くさがらない」人だったと御礼を言っている。

女優として大成したことは誰もが知っている。そして「家なし、カーなし、コブ付き」という悪条件の結婚をして、男児も授かっている。来年は米寿を迎える熟年期の司葉子は、人生100年時代をどのように過ごすのだろうか。