久恒啓一共著『自分伝説』を、文藝別冊増補新版『幸田文』の中に発見!

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「名言との対話」10月31日。幸田文「(心がそれだけ)回るし、いちばん的確なのをつかめる、選べるという自由がございますね」

 幸田 文(こうだ あや、1904年明治37年)9月1日 - 1990年平成2年)10月31日)は、日本随筆家小説家。

幸田文の文章は、新しい情報を伝える「エッセイ」ではなく、日常の見聞から人間の本質を描く「随筆」というにふさわしい。

父・露伴のことにはどうしても目がとまる。「父にうそをつくと観破されて恥しい目にあう」「黙ってひとりでそこいら中に気をつけて見ろ」「なぜもっと父の話を沢山聴いておかなかったか悔やまれた」「父の書斎、、、そこは家人といへども猥りに入ることのできない、きびしい空気がつつんでゐた」「お父さんは偉い人だと感服して聴いた」「ある冬、伊豆に遊んでいた父から手紙をくれた。「湯のけむり、梅の花、橙の黄、御来遊如何」という誘い、、」。露伴と文との関係と交流が過不足なく冷静の描かれている。

「終焉」の終わりは、「「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と何の表情もない。穏かな目であった。私にも特別な感動も涙も無かった。別れだと知った。「はい」と一言。別れすらが終わったのであった。」である。

「このよがくもん」の始めは、「「お前は赤貧洗うがごときうちに嫁にやるつもりだ」、、「、、薪割い・米とぎ、何でもおれが教えてやる」である。

今回、文藝別冊増補新版『幸田文』を読んだ。中では女性作家の見方に興味をそそられた。幸田文の姿は「ふいに何処か下り立ったような薄藍色の着物の女人(にょにん)」と森茉莉が書き、「幸田文の文章「まっ直ぐに立ち真正面から当たるしか出来ない作者の、凛として少し哀しい潔さ、、」とは、高樹のぶ子の言である。

この本の中で金井景子早稲田大学教授)という人が私の名前を挙げているのに驚いた。「自分史作成のための数ある指南書のなかで、就職活動をする若年層をも射程に収め、CD-ROM版の支援ソフトを同時発売して話題になった久恒啓一・沼田芳夫共著『自分伝説』では、自分史を執筆する際に、「人生キーワード」として次のような六領域を想定している。「家族・家庭」「生活・住居」「交遊・恋愛」「趣味・嗜好」「学校・職歴」「資格・表彰」。それぞれの領域において自分が如何なる状況に取巻かれていたか、また何をなしえたかを追想するかたちで、自分史執筆のためのデータが蓄積されてことになる」と紹介している。1999年、もう20年前の著書とCD-ROMだ。

2010年に映画「おとうと」をみた。山田洋次監督が描く可笑しくて哀しい物語だ。山田監督はパンフの挨拶に「家族という厄介な絆」というタイトルをつけている。主演の姉吟子役は吉永小百合、弟役は鶴瓶だ。原作は、幸田文だった。

2013年に世田谷文学館でやっていた「幸田文展」で幸田文の人生を考えたことがある。露伴の死後に露伴の思い出を書くようにとの要請にこたえて文章を書き始める。43歳だった。86歳で死去するまで名随筆を書き続ける。

幸田文の本をまともに読んだのは『きもの』だけだ。人生の転変を、着物をめぐる変化とともに描く逸品だと感心した。

斎藤茂吉が「先生」と呼んだのは鴎外と露伴だけだったが、その露伴の『努力論』の中に「努力して努力する」---これは真によいものとは言えない。「努力を忘れて努力する」---これこそが真によいものである、との記述がある。また「惜福、分福、植福」論もいい。

大野晋が、「言葉の数が少なくなってくると、事の判断のしようが浅くなる」と嘆いたときに、幸田文は「(心がそれだけ)回るし、いちばん的確なのをつかめる、選べるという自由がございますね」と対応している。戦後の漢字制限で、文章のきめが粗くなり、言葉と事柄の間柄のとらえようが雑になる。このことを警告しているのだ。「おもう」は「思う」だけになった。「想・念・憶・懐」という「おもう」は使われなくなった。幸田文は、こういう漢字を思い浮かべ、心をまわしながら文章をしたためたのだ。日本語の素晴らしさに感銘をうける、こういう随筆家はもうでない。