今村翔吾『じんかん』(オーディブル)

今村翔吾『じんかん』をオーディブルで聴き終わった。

「人間」。一人の場合は「にんげん」と読む。人の世、世間という意味では「じんかん」と発音する。この本は後者を描いた作品だ。2020年刊で、直木賞候補作となった。山田風太郎賞を受賞。

主人公は松永弾正久秀(1510~1577年)。出自ははっきりしない。戦国時代の武将。三好長慶に仕えたが、奈良に多聞城を築いて主家を滅ぼし、将軍足利義輝を殺し、東大寺大仏殿を焼いた。織田信長の入京に際して降伏したが、のち背いて敗死。謀反の連続だが、その都度、しぶとく生き残った。そういう不思議な生涯を送った人物として知られる。これが常識的な見方である。ところが、、、、、。

『じんかん』の解説では、以下のように紹介されている。「仕えた主人を殺し、天下の将軍を暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き尽くすーー。民を想い、民を信じ、正義を貫こうとした青年武将は、なぜ稀代の悪人となったか?時は天正五年(1577年)。ある晩、天下統一に邁進する織田信長のもとへ急報が。信長に忠誠を尽くしていたはずの松永久秀が、二度目の謀叛を企てたという。前代未聞の事態を前に、主君の勘気に怯える伝聞役の小姓・狩野又九郎。だが、意外にも信長は、笑みを浮かべた。やがて信長は、かつて久秀と語り明かしたときに直接聞いたという壮絶な半生を語り出す。貧困、不正、暴力…。『童の神』で直木賞候補となった今最も人気の若手歴史作家が、この世の不条理に抗う人すべてへ捧ぐ、圧巻の歴史巨編!」。

民の世を実現しようとする革命家、茶の湯を武器とするネットワーカー、心優しき人物、、、、。梟雄としてしか知らなかった謎の人物の再定義に成功している。歴史の脇役、悪役を主人公に、現代にも通じるテーマに取り組んだ人物として描くというスタイルの今村翔吾の作品。今村はこの書の刊行の2年後に直木賞を受賞している。

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午後:P社と7月の講演の打合せ。

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「名言との対話」6月10日。盛田稔「力を振り絞って、恩義に報い、学院を正しい姿に立ち直らせたいと思っております」

盛田 稔(もりた みのる、1917年3月15日 - 2019年6月10日)は、日本の経済史学者。享年102。

東京帝国大学経済学部卒業後は陸軍経理学校出身の陸軍主計中尉。国内・中国大陸を転戦したのちに終戦となり俘虜捕虜生活。帰国後に公職追放となり、田畑を耕し家畜を飼うなど実践と独学の繰り返しで農業知識を習得する。中学、高校の教員、北里大学教授などの職を経て、青森大学教授になり、1971年に青森大学学長に就任する。21年間という長い期間、学長をつとめて、1992年に退任。

その後も、県文化財保護協会会長、県文化振興会議会長、県史企画編集委員会会長等、青森県の文化振興、歴史研究に貢献している。

そして、学長退任後から20年後の2012年に、95歳で青森山田学園理事長、のち学園長になる。

青森山田学園青森大学、青森短大、専門学校、高校、中学校、幼稚園などを傘下に持つ名門であるが、青森大学では、中国人偽装留学や奨学金の不正受給問題、山田高校野球部員の死亡事件などがあり、山田学園は満身創痍の状況にあった。学長退任後の20年後に火中の栗である学園長に就任した。

現在の青森山田高校は、卓球では福原愛選手、水谷隼選手など、オリンピック級の選出を輩出している。テニスの錦織圭、ボクシングの竹原慎二。野球では甲子園出場10回を超え、夏の甲子園では8強の実績のある有名校になっている。それは盛田稔のおかげだろう。

盛田稔は経済を専門とし、戦後は農業をテーマとしており、著作も多い。『南部藩に於ける舫制度の研究』(盛田農民文化研究所 )、『近世農地証文の研究』(青森県農業総合研究所)、『近世青森県農民の生活史』(青森県図書館協会) 、『南部小絵馬』(青森大学出版局)などの書がある。学長退任前後からは、青森県の歴史、文化を主題とした共編著・共著として『図説日本の歴史 2  図説青森県の歴史』河出書房新社)、『津軽家文書抄』( みちのく双書)、『図説上北・下北の歴史』( 青森県の歴史シリーズ)、『図説三戸・八戸の歴史』(青森県の歴史シリーズ )、『青森県謎解き散歩』(新人物文庫)などをものしている。

冒頭の決意表明は、「学園の現状を、残念で情けない気持ちで見ておりました。21年間青森大学の学長をやらせていただきましたので、最後のご奉公と思って引き受けました」から続く。その時、御年なんと95歳というから驚きだ。『生涯現役 波乱万丈の95年』(文化出版)という自叙伝を読みたいものだ。

盛田稔は102歳で亡くなっているが、最晩年になっても知的欲求はなお深く、「、、、について調べたい」、「まだ本を書かなくてはいけない」と意欲を見せていたという。本当に「生涯現役」を貫いたセンテナリアンだった。

地方を旅したり、必要があって調べていると、こういう傑物に出くわすことがある。郷里・中津の横松宗、秋田の小畑勇二郎、武塙祐吉、熊本の永野光哉などが思い浮かぶが、中央にいれば、全国区で名前が知れ渡っただろうという偉い人たちだ。「一隅を照らす」という言葉があるが、盛田稔も一隅を明るく照らした人物の一人である。