梅原猛の70歳時のインタビューを聴くーー梅原古代学から梅原日本学へ

NHK「昭和人物史」ー梅原猛の2回を聴いた。70歳の時のインタビュー。

数学が得意な理科系少年だったが、川端康成の影響を受けて興味が文学へ。八高で学び、西田幾多郎らの影響を残る京大で哲学を専攻する。
35歳:新しい学問が襲ってくる。日本研究。神々。仏教と芸術。縄文。

45歳:古代三部作『隠された十字架』(法隆寺聖徳太子の霊を鎮める寺)。『水底の歌』(柿本人麻呂流罪による刑死)『神々の流竄』(古事記論)。通説に反対する大胆な仮説群を連続して刊行。梅原日本学。
60歳を越えて:市川猿之助のスーパ―歌舞伎『ヤマトタケル』「スーパー能」の脚本を書く。日本ペンクラブ会長、京都市立芸術大学学長。日本文化研究センターの設立など活発な社会活動を展開。文化功労者文化勲章。2019年死去。享年93。

以下、PLAUD NOTEによる要約と編集。

梅原猛の生涯、学問的業績、社会的活動

  • 梅原猛の生い立ち: 梅原は大正14年宮城県仙台市で生まれ、すぐにおじ夫婦の養子となる。実の両親が学生であったため、生活力が乏しかったため。母親は梅原を産んですぐに亡くなった。
  • 学問の転機:  梅原は川端康成の本との出会いで文学少年に変身し、文系の道を歩むことになる。35歳の頃に日本や東洋の哲学に注力し、特に仏教と芸術を研究する。
  • 古代三部作:  梅原氏は45歳の頃に新しい学問に目覚め、古代三部作『隠された十字架』『水底の歌』『神々の流竄』を執筆。これらの作品は日本の古代文化や仏教芸術、万葉集をテーマにしている。
  • 縄文文化研究:  梅原は縄文文化の研究を通じて、新しい人類の哲学を考えるきっかけを得る。縄文文化アイヌ文化や沖縄文化に残っており、日本の基礎文化として重要であると考える。
  • 歌舞伎脚本:  梅原は60歳を超えてから市川猿之助スーパー歌舞伎ヤマトタケル』の脚本を担当。縄文と弥生の戦いや父と子の対立など、自身の歴史観や人生のテーマを盛り込んだ作品となった。
  • 社会的活動:  梅原は晩年に社会的な活動を積極的に行い、九条の会の呼びかけ人や東日本大震災復興構想会議の特別顧問を務める。学問で学んだことを社会に還元しようとする強い意志を持っていた。
  • 梅原猛の紹介:  梅原武氏の生涯と業績について紹介。1925年生まれで、2019年に93歳で亡くなった。日本ペンクラブの会長や国立国際日本文化研究センターの初代所長を務めた。
  • 学問的アプローチ:  宗教、古代史、民族学を哲学的視点で考察し、独自の仮説を展開。既存の学会の常識にとらわれない大胆な仮説を立て、多くの議論を巻き起こした。
  • 著書『隠された十字架』:  1972年に出版された『隠された十字架』は、法隆寺聖徳太子の御霊を慰めるために建てられたという仮説をまとめた評論。梅原の仮説は従来の通念を覆すもので、ベストセラーとなった。
  • 著書『水底の歌』:  1973年に出版された『水底の歌』は、柿本人麻呂が晩年に反逆者として処刑されたという仮説をまとめた評論。梅原の仮説は大胆であり、人物に対する愛情も感じられる。
  • 仮説の意義:  梅原の仮説は一部の学者から批判を受けたが、学問としての意義があり、人が生きた時代や姿を理解するために重要であると評価されている。
  •  戦争体験と哲学の選択:青春時代の自我の目覚め:  中学4年生の時に自我の目覚めを経験し、数学から文学への興味の転換を語る。
  • 文学への傾倒:  川端康成の作品に影響を受け、文学に夢中になったことを述べる。
  • 高等学校時代の哲学への目覚め:  八高での哲学的な議論や、デカルトやカントの影響を受けたことを語る。
  • 戦争体験と哲学の選択:  戦争中の経験が哲学を選ぶきっかけとなり、論理的思考が自分に合っていると感じたことを述べる。
  • 戦後の大学生活:  京都大学での研究生活や、戦争の影響で哲学を深める決意を語る。
  • 戦争の傷と哲学:  戦争での心の傷が哲学の研究に影響を与えたことを述べる。
  • 京都での学問の発展:  京都の環境が学問を深めるのに適していたことを語る。
  • 日本研究の重要性:  日本の歴史や文化を研究することの重要性を述べる。
  • 哲学への回帰:  70歳を迎え、再び哲学に取り組む意欲を語る。
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・松戸川柳会に12句を投稿。

・「人物記念館ミュージアム」の原稿を送付。

・電話:弟。千葉雄。松田。富田。

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「名言との対話」6月11日。王馬 煕純 「食事は、家族の健康はもちろん、家庭の団欒と幸福を象徴する場」

王馬 煕純1920年9月1日ーー2018年6月11日)は、料理研究家

1941年、東京芸術大学卒業。結婚の後に、料理の研究を始める。NHKきょうの料理」の初期から、日本初の本格的中国料理研究家として活躍した。この番組は1957年より60年以上にわたって放送されている料理番組である。王馬煕純おいしくてからだにやさしい料理を紹介し続けて、テレビ、ラジオなどで活躍した。女子栄養大学講師。厚生年金会館料理教室講師。日本における四川料理の父といわれた陳健民と並ぶ偉大な料理研究家である。

以下、著作。「電子レンジでつくる中国料理」、「お料理しましょう」、「中国料理」。「中国料理入門」、「王馬煕純の中国家庭料理」、「中国料理おすすめ百菜」、「王馬煕純の家庭料理」、「中国料理の基礎」、など多数。

その著書に対するアマゾンの書評をみると、ファンの言葉が並んでいる。

「王馬 煕純先生は相当な研究熱心で、舌のこえた方なのでは。一つ一つが的確な味です。麻婆豆腐や家常豆腐は、本場のエッセンスをいかした日本では他の本には載ってないであろうレシピです」

「王馬 煕純さんは 昔 よく NHK今日の料理に出ていました。 美しくて上品な方でした。 基礎といえば 簡単なものかと思うかも知れませんが これは 難しい材料 たとえば 干しなまこ等の扱い方も書いてあります。 これ1冊で簡単なものから 手の込んだ料理まで作れます。 とても役にたちました」

「 柴田書店の専門書のこの本の特徴は、何万種類あるといわれる中国料理の中から、日本の家庭でも簡単においしく作れるものを、180種選び、大半を調理法別に、残りを点心(軽食・デザート)と常備菜に、それぞれ実際につかいやすいように構成してあることです」

「緒言に1995年初秋となっていますが、今でも色あせない味と盛り付け、特に使用されている色絵の陶磁と料理の調和や、素材の切り方の美しさには感銘を受け、サイト検索にて、王馬熙純女史が“中国東北地方の貴族生まれ”とあるのを読み、首肯した図説です。日本との関わりは、17歳から上野音楽学校(現 東京芸術大学)器楽科ピアノ専攻入学及び同校卒業から始まることも、印象深いものでした」

私が手にした『NHKきょうの料理』では、精神論は一切なく、食生活の面から便利なようにまとめてある。魚、豚肉、牛肉、鶏、卵、野菜、豆腐、、、と材料別に構成してある。また利用しやすいように、索引が充実している。調理法別索引では、いためもの、揚げもの、あんかけ、煮もの、あえもの・よせもの・むしもの。常備菜、前もって作れる料理、すぐ作れる料理。条件に応じた献立のために。四季に供するのに適した料理。以上、実際の料理に役立つ工夫にあふれている。

 王馬 煕純は「食事は、家族の健康はもちろん、家庭の団欒と幸福を象徴する場」という。「料理」に関わった人たちの言葉を拾ってみよう。林原一郎(林原コンツエルン創業者)「料理の旨まさというものは家庭料理にとどめをさす」。村上信夫(帝国ホテル料理長)「やはり平和が一番だ。うまい料理こそ平和の象徴。もう一度料理をつくろう」。やはり料理は家庭の平和をもたらす平和産業である。

「日本ほどあらゆる国のおいしい料理が家庭で作られている国はありあません」と「はじめに」にある。細心の注意を払う料理研究家である著者の人柄がにじみ出た、かゆいところまで手がとどいている配慮が生き届いた本だ。健康と団欒と幸福と平和をもたらすのが料理であることを改めて感じた。