『図解コミュニケーション全集』第一巻『原論編』の校正が終了。

「図解コミュニケーション全集」第一巻「原論編」の校正が終了。

1990年の『コミュニケーションのための図解の技術』(日本実業出版社)、200年の『図で考える人は仕事ができる』(日本経済新聞社)、2005年の『合意術ー深掘り型問題解決のすすめ』(日本経済新聞社)の3冊が、第一巻に収録される。

久しぶりに、じっくりとこの3冊を読み返すことになった。40歳から55歳までの自分が何を考え、何をテーマとして疾走していたかを改めて確認する時間となった。こういう書物として残していなければ、霧がかかった状態になっていただろう。当たり前だが、その時々に記した記録が大事だと改めて思った。

ベルリンの壁崩壊から始まった世界の激動と日本経済バブル崩壊の直前にあった1990年。2001年の9・11同時多発テロから始まった不穏な21世紀の幕開け。この間の日本のかじ取りは、1990年は海部首相、2001年からの5年半は小泉純一郎首相だった。

この3冊は平成2年から平成17年の、平成時代の前半にあたる15年間に上梓した書物だ。ビジネスマン時代に初めての単著『図解の技術』を書き、1997年(平成9年)に大学に転身し、5年後に『図で考える人は仕事ができる』でブレークし、宮城での地域活性化活動を土台に図解思考と定性情報と顧客視点で日本を救おうとする『合意術』を書いた。「図解コミュニケーション史」というものがあるとすれば、それぞれ時代を画した書だといえる。

この3冊の本も、時代の流れを睨みながら書いており、「図解」をめぐる思想(「図解思想」とでも呼ぼうか)も企業、大学、地域の現場体験を通じて、しだいに深まっていく姿を改めて感じることができた。 f:id:k-hisatune:20200610181940j:image

 

「名言との対話」6月10日。盛田稔「力を振り絞って、恩義に報い、学院を正しい姿に立ち直らせたいと思っております」

盛田 稔(もりた みのる、1917年3月15日 - 2019年6月10日)は、日本の経済史学者

東京帝国大学経済学部入学。卒業後は陸軍経理学校出身の陸軍主計中尉。国内・中国大陸を転戦したのちに終戦となり俘虜捕虜生活。帰国後に公職追放となり、田畑を耕し家畜を飼うなど実践と独学の繰り返しで農業知識を習得する。中学、高校の教員、北里大学教授などの職を経て、青森大学教授になり、1971年に青森大学学長に就任する。21年間という長い期間、学長をつとめて、1992年に退任。その後も、県文化財保護協会会長、県文化振興会議会長、県史企画編集委員会会長等、青森県の文化振興、歴史研究に貢献している。そして、学長退任後から20年後の2012年に、95歳で青森山田学園理事長、のち学園長になる。

青森山田学園青森大学、青森短大、専門学校、高校、中学校、幼稚園などを傘下に持つ名門であるが、青森大学では、中国人偽装留学や奨学金の不正受給問題があり、山田高校野球部員の死亡事件などがあり、山田学園は満身創痍の状況にあった。学長退任後の20年後に火中の栗である学園長に就任したのである。

現在の青森山田高校は、卓球では福原愛選手、水谷隼選手など、オリンピック級の選出を輩出している。野球では甲子園出場11回、夏の甲子園では8強の実績のある有名校になっている。それは盛田稔のおかげだろう。

盛田稔は経済を専門とし、戦後は農業をテーマとしており、著作も多い。『南部藩に於ける舫制度の研究』(盛田農民文化研究所 )、『近世農地証文の研究』(青森県農業総合研究所)、『近世青森県農民の生活史』(青森県図書館協会) 、『南部小絵馬』(青森大学出版局)などの書がある。学長退任前後からは、青森県の歴史、文化を主題とした共編著・共著として『図説日本の歴史 2  図説青森県の歴史』河出書房新社)、『津軽家文書抄』( みちのく双書)、『図説上北・下北の歴史』( 青森県の歴史シリーズ)、『図説三戸・八戸の歴史』(青森県の歴史シリーズ )、『青森県謎解き散歩』(新人物文庫)などをものしている。

冒頭の決意表明は、「学園の現状を、残念で情けない気持ちで見ておりました。21年間青森大学の学長をやらせていただきましたので、最後のご奉公と思って引き受けました」から続く。その時、御年なんと95歳というから驚きだ。『生涯現役 波乱万丈の95年』(文化出版)という自叙伝を読みたいものだ。盛田稔は102歳で亡くなっているが、最晩年になっても知的欲求はなお深く、「、、、について調べたい」、「まだ本を書かなくてはいけない」と意欲を見せていたという。102歳で没。本当に「生涯現役」を貫いた人だった。

地方を旅したり、必要があって調べていると、こういう傑物に出くわすことがある。中津の横松宗、秋田の小畑勇二郎、武塙祐吉などが思い浮かぶが、中央にいれば、全国区で名前が知れ渡っただろうという偉い人たちだ。「一隅を照らす」という言葉があるが、盛田稔も一隅を明るく照らした人物の一人である。