人物記念館の旅「朝倉文夫--一日土をいじらざれば 一日の退歩である」(三笠書房ホームページに連載中)

1948年に彫刻部門初の文化勲章を受章した朝倉文夫は、1883年に現在の大分県大野郡朝地に生まれ、東京オリンピック開催の1964年に没している。荒城の月で有名な竹田市の岡城址に立つ瀧廉太郎の像も、同じ小学校で4つ下だったという因縁で制作にあたった朝倉の作品で、像の後ろ側には廉太郎の想い出が詩情豊かに記してあったのを訪問時に見つけて二人の交遊を偲んだ。


 美校在学中「一日一点」の塑像作成を日課とした朝倉は、明治40年の卒業制作「進化」(猿が人間になろうとする進化のプロセス、文明に反抗を示す男と恐れる女の群像)、41年「闇」で第二回文展最高賞の二等賞を受賞。第3回文展で「山から来た男」、第4回文展で「墓守」など賞を次々に受ける。「自然な姿を自然なままに」という写実主義で、一度もヨーロッパに行かなかったため独特の作風が生まれた。朝倉によれば「彫刻とは自然を立体的に見る学問」である。


 朝倉は独自の骨相学を用いて写実彫刻である肖像彫刻に豊富な作品を残している。フロックコート着用の加藤高明、モーニング姿の後藤新平、ガウン姿の大隅重信、羽織袴の加納治五郎などを含めて実に400点を数える。この過程で、同時代の有力な人物との交流が生まれ、「政治」を楽しんだ形跡も感じられる。


 記念館の入り口で最初に目につくのが二人の乙女の裸像だ。このモデルは娘の朝倉摂朝倉響子で、当時裸婦のモデルになってくれる女性はなかなか見つからなかったためやむなく娘をモデルにしたという。このエピソードは子供の頃に聞いた記憶がかすかにある。義務教育も一般の学校教育にまかせずに、自分の家庭に教師を入れて娘を教育している。後に姉の摂は舞台芸術家、妹の響子は彫刻家となる。摂さんとは一度だけビジネスマン時代に仕事で縁があった。


 女性群像の第二展示室、猫を中心とした動物彫刻の第三展示室、若い男性彫刻の第四展示室は、斜めの土地をうまく生かして、階段を登っていく構造になっていて、設計した清家清の構想に新鮮な驚きを覚える。コンクリと木を用いた明るい展示室には、生涯にわたって作り続けた驚異的な量と高いレベルの彫刻作品の一部が展示されていて、その旺盛なエネルギーに圧倒される。


 朝倉は家や庭づくりにいたるまでこだわった生活を送ったが、「質朴労働、努力の連続、血みどろの苦労、生命を打ちこんだ仕事、終始緊張の連続、苦心の境涯、体験、よく見る、道具、体、手」などの儒教の精神を大切にした厳しい姿勢をあらわす一連の言葉を好んだ。書画、俳句、茶道、釣りなどどの分野にも一流の才能を示して多芸多才の人の趣もあったが、「一日土をいじらざれば 一日の退歩である」は、実は努力の人だったことがうかがわせる、朝倉文夫の人生と生活を象徴する言葉である。