「川喜田半泥子のすべて」展−−「大夢出門」(Time is money)

母親が九州から上京したのが12月24日、そのまま横浜の弟の新居で過ごす。30日には迎えに行き、我が家で正月を過ごす。

母は40年来の歌人で、現在までに短歌集3冊(「風の偶然」「風あり今日は」)とを刊行し、70歳の時に「万葉集の庶民の歌」、80歳の時に「わたしの伊勢物語」という2冊の著書も刊行している。朝日新聞大岡信の「折々の歌」(2004年12月19日)にも夫の看病を歌った歌も取り上げられたこともある。このときは最初に私が見つけて連絡した思い出がある。このときは本人は知らなかった。http://www.hisatune.net/html/05-career/private/05-1d.htm

私の家にいた期間に、元旦にたまたま散歩しながら短歌のまねをしたところ、添削をしてくれて短歌らしくなった。これじ味をしめて数首つくってみた。実地の添削と解説なので、頭に入る。今年の正月の最大の収穫は、この短歌である。

その母を直行バスで羽田まで送っていきながら、いろいろと話をする。多摩川の流れ、ビルの林立する赤坂、レインボーブリッジ、多摩川が海に注ぐあたり、そして羽田空港。今までは福岡空港だったが、今度は比較的新しい初めての北九州空港の往復である。
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母を見送った後、銀座松屋で開催中の「川喜田半泥子のすべて」展に向かう。http://www.matsuya.com/ginza/topics/100118e_kawakita/index.html
「東の魯山人、西の半泥子」と並に称された一流の風流人。伊勢の豪商の家に生まれ、百五銀行頭取、地方議員などの要職をこなしつつ、書画、茶の湯、絵画、写真、建築、俳句と多芸ぶりを発揮する。とりわけ50才を過ぎて始めた陶芸では破格の才を示し、自由奔放ななかにも雅趣に富む世界を創造、「昭和の光悦」と声価をを高める。
1878年生まれで、魯山人より5才上、加藤唐九郎より20才上という年齢感覚である。84才まで風流の道に生きた。

書や俳句などではユーモアとウイットに富む作品が多い。
「大夢出門」という書は、Time is moneyの邦訳。
「波和遊」は、How are you?
「愛夢倶倶楽通志友」は、I am glad to see you.

36才から号として用いた「半泥子」は、「半ば泥(なず)みて、半ば泥まず」という意味である。
「半泥子は、なににでも没頭し、泥んこになってしまう。泥んこになりながら、冷静におのれを見つめることを忘れない。大胆なふるまいをし、ハメをはずしているようでも、芯となる風雅の要諦は、けっして踏みはずさない。」(美術評論家・吉田耕三)

無茶法師と名乗った連載随筆が本になっている。それが「泥仏堂日録」で、連載中から人気あった。
日録の冒頭には、「此の無茶法師無茶苦茶が、是から記される日記である。読む人こそ災難である」とあり、単行本になるときのあいさつでは「、、それにしてもこれを読まされる方々こそお気の毒さまである」と書いている。人柄や処し方がわかる気がする。

尾形乾山、仙涯、光悦、、などの名前が出てくる。

資料を読んで、改めて半泥子についてまとめてみたい。
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1月6日生まれの人々から。

今西錦司。昭和時代の生物学者,登山家。
明治35年1月6日生まれ。昭和34年京大教授。42年岐阜大学長。棲(す)み分け理論をとなえ,独自の進化論を展開。日本の霊長類学の基礎をきずき,晩年は自然学を提唱した。学術調査,探検,登山のリーダーとして活躍。62年国内1552登山を達成。日本山岳会会長。54年文化勲章。平成4年 6月15日死去。90歳。京都出身。京都帝大卒。著作に「生物の世界」「私の進化論」など。

立原正秋。昭和時代後期の小説家。
1926年1月6日朝鮮慶尚北道生まれ。金敬文・権音伝の長男。昭和12年(1937)横須賀市の母の再婚先にうつる。小説家をこころざし,能をはじめ日本の古典に傾倒した。「薪能」「剣ケ崎」などが芥川賞候補となり,41年「白い罌粟(けし)」で直木賞受賞,流行作家となった。昭和55年8月 12日死去。54歳。早大中退。作品はほかに「きぬた」「冬のかたみに」など。
【格言など】甘えは元来が自制力と節度の欠如がもたらすものである(「心に節度を」)