「幸福塾」ーー本居宣長。渡辺崋山。川喜田半泥子。新田次郎。公文公。

「幸福塾」は「個人」のライフワーカーを取り上げた。

塾生たちからの近況。私の近況『名経営者の言葉』『図解コミュニケーション全集』第6巻の話題など。そして、松下幸之助を大器晩成の人として紹介。

「個人」のライフワーカーを解説。

本居宣長「主として奉ずるところをきめて、かならずその奥をきわめつくそうと、はじめより志を大きく立ててつとめ学ばなくてはならぬ」

渡辺崋山「大功は緩にあり 機会は急にあり」

川喜田半泥子「陶芸は余技だから売る必要がない。ゆえに自分の理想とするものを、他人のことなど気にせずに自由に自分のすきなように作ることができる」

新田次郎「春風や 次郎の夢の まだ続く」

公文公「悪いのは子どもではない」

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以下、塾生の学び。

  • 久恒先生、本日もありがとうございました。今回は、本業を行いながら(公人)、別に志をもって活動し成功した(個人)5人を紹介いただきました。特に興味をもったのは「本居宣長」の活動で、昼は医者、夜は塾の講師、深夜に研究者として活躍と、時間を分けて活動していたことです。しかもその「個人」活動が多岐に渡り、有名な「古事記伝」を約35年もかけて完成させた翌年に亡くなったことや、生まれたときから死ぬ直前まで日記を書き続けていたということを知り驚いた次第です。本居宣長にとっては時間が足りなくて、もっと長く生きて、やってみたいことがまだまだたくさんあったのかもしれませんが、1日24時間をいかに工夫して生きるのか、現代にも通じるテーマについて、そのお手本を見せていただいたように感じました。また、時間をいかに使うか、大切に生きることが幸福につながるポイントであると再認識しました。次回は女性を紹介いただけるとのこと。どんな人生について聞けるのか、来年になりますがワクワクしてます。引き続きよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。本日の幸福塾、先ずは松下幸之助翁の『金言』でウオーミングアップしました。「向上心」、「謙虚さ」、「良い意味での楽観…運があると思ったら強い」☞自然と周りの人たちとの緊張を溶かし、共感・応援し合う人間関係の構築していく姿が想像できます。丁度先日、寺島先生のMXテレビ「世界を知る力対談編」で順天堂大学病院天野篤教授が全く同じことを仰っていたのを思い出しました。どんな世界でも等しく大切なスタンスと痛感しました。続く本題では、『個人としての志を持ちつつ成功した人』と題して5人の偉人達について久恒先生からレクチュア頂きました。①本居宣長、昼は町医者、夜は町人旦那衆相手に塾講師、そして深夜の研究、35年継続し「古事記伝」原稿が完成、儒教・仏教を非難する日本中心の排外思想、明治維新の原動力となった。『大和魂』。②渡辺崋山三河田原藩藩士で絵画がライフワーク、特に肖像画は秀逸。厳しい時間管理、課題は2時間刻みでこなす、睡眠3時間。③川喜田半泥子、銀行の頭取・政治家、夜は陶芸。号の由来は「半分ドロにまみれ、半分はそうじゃない」メリとハリ。陶芸は余技、自由な創作。④新田次郎気象庁測器課長、富士山測候所建設、締め切りを伸ばした事が無い、仕事柄日程にマージンの習慣。5時になったらぱっと帰宅、7時からは自宅で著作。⑤公文公、33年間数学教師の傍ら公文式教育を展開、毎夕食後の息子の補習がきっかけ。「足に靴を合わせる」教育、民間教育機関では世界最大に。全体的に以下3つの共通点を見出すことができました。1)しっかりした本業に長く従事し安定した生活環境を確保。2)厳しい時間管理のもと、明確なオン・オフを区別。3)ポイントは「夜」に、生き生きと趣味に没頭。はじめの「金言」と同様、いまスグ自らの生活にも意識して取り入れなきゃ損!と強く感銘を受けたことが本日の学びとなりました。有難うございました、次回も宜しくお願い致します。
  • 久恒先生、みなさま、幸福塾ありがとうございました。今日は仕事をしながら「個人」の志を実現した人とのことで、本居宣長渡辺崋山のほか、川喜田半泥子新田次郎公文公と5人の方の紹介がありました。それぞれに本業を持ちながら、自らのライフワークを成し遂げたということで、やはり怒涛の仕事量。時間の使い方も凄いし、体力もすごい。何にも増して気力の続いているところに凄さを感じます。そのような中で、川喜田半泥子の「芸術は余技、本業にはしない、だから自由、本業にすると楽しみがなくなる」という遊びのような境地(が感じられます)には驚きです。それでいて、魯山人と並び称されるまでに至っているところが本当にカッコいい。憧れです。KJ法の川喜田二郎氏が半泥子の息子さんだったという話も驚きでした。次回は「個人」の女性版とのこと。どんな方が登場するか楽しみです。
  • 本日の幸福塾、ありがとうございました🍀遅れましたが、参加できたことに感謝します。公文公さんの説明のみ、なんとか聞くことができました。「足に靴を合わせる教育」まさしくおっしゃる通りです。千差万別の足に対して、それぞれの足に適した靴、一人一人の能力に適した教育、なかなか実現が難しいのは、管理する側のエゴかもなぁと。オーダーメイトの教育、一度仕掛ければ、あとは彼らが自発的にどんどん学んでいけば、管理しなくてもいいのではないかと、気づいた次第です。ところで、皆さまの感想を拝読し、今回は公人と個人を両立されたかたをテーマにされていたのですね。なんだか、器用だなぁと思いつつ、切り替えて対応することで両立されていたことに偉大さを感じています。
  • 今日もありがとうございました。「公人」と「私人」をうまく両立させた人たちのことが語られていました。「天は二物を与えず」と言いますが、それはたぶん間違いだと思います。本居宣長渡辺崋山新田次郎川喜田半泥子公文公と、いずれも本業はしっかりとやり、本業以外でも輝かしい業績を上げた人々です。これを達成するためには並々ならぬ努力と、執念のようなものがあったこと、さらに時間管理が重要だったことを改めて知りました。本居宣長は2時間(現在の2時間とは違うでしょうが)ごとに区切って生活のリズムを守り、昼は医者としての仕事、夜は町人対象の講義、深夜に古事記の研究に費やし、睡眠時間が3時間だったということに驚きました。しかも古事記伝を書き終えるまで35年かけたというのも驚きです。新田次郎も仕事は午後5時で終え、7時から11時まで執筆という生活だったそうで、その切り替えがあのような偉業を成し遂げたことにつながったのでしょう。次回も楽しみにしております。
  • 久恒先生、皆さま、本日も幸福塾ありがとうございました。特に印象に残った内容は、本居宣長です。以前、37年前、学生時代に江藤淳氏の講座で本居宣長賀茂真淵の松阪の一夜について聴いて大変感動したこと思い出しました。本居宣長については、35年かけて古事記伝を書いた人くらいの知識がなかったのですが、江戸時代の国学者、文献学者、言語学者で医師もされていたとは知りませんでした。また儒教や仏教に批判的だったとのことで、興味深かったです。その他、新田次郎川喜田半泥子公文公などの内容も興味深かったです。どの人物も仕事とライフワークを同時にこなし、二束わらじで生活されていたと聞き私も見習いたいと思いました。今回も多くの新たな発見を得ることができ、ありがとうございました。次回も楽しみにしています。
  • 久恒先生、皆様、ありがとうございました。今回のテーマは「仕事はしっかりこなし、個人の志は実現されている、本居宣長渡辺崋山川喜田半泥子新田次郎」でした。学校で学んだ人物像はややあやふやなので、TVでの情報ですが、絵画の紹介で渡辺華山は蘭学者なので洋画の技術を取り入れた肖像画を残せたのです、との説明。確かにその通りでしょうが、家老の職の方の業績となるとその重みが異なって感じます。川喜田二郎川喜田半泥子の息子だとか、新田次郎の家族の方の業績を知ると、遺伝子と環境はやはり大きいのかなと感じます。学生の頃どんな社会人になりたいかと友人と話した時「小椋佳のように仕事もプライベートも充実したい」と語って半世紀。「成功する者は運がある、失敗する者は努力が足りない」という松下幸之助の言葉から思うに、特に失敗したわけではないので、運が足りないのかな、と自分を誤魔化しております。あっという間の一年でした。次回も宜しくお願いします。
  • 本日もありがとうございました。公人としてのお仕事もきちんとされ、個人としてのライフワークも持っている方々のお話を聞きました。川喜田半泥子さんのスーツの上着を脱いだ格好で陶芸されている写真、かっこいいですね。銀行や実業家政治家などの仕事をきちんとこなし、陶芸家として名を残していらっしゃる。今回ご紹介いただいた方々は、公人をきちんとこなして、自由に個人としてのライフワークとなるものにつきすすむことができるようになることがわかりました。目の前の仕事はきっちり行い、個人としてのライフワークも楽しみながら極める。というのが、理想です。また次回は女性の偉人たちのお話といことで楽しみにしております。
 
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「名言との対話」12月14日。植芝盛平「合気とは敵と戦い敵をやぶる術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」
植芝 盛平 (うえしば もりへい、 1883年 〈 明治 16年〉 12月14日 - 1969年 〈 昭和 44年〉 4月26日 )は、 日本 の 武道家 。 合気道創始者
和歌山県田辺市出身。植芝盛平記念館を併設した田辺市立武道館が、2020年10月に開館している。この記念館では植芝盛平の生涯を「若き日の苦行独行 0~36歳」、「合気道の夜明け 37~58歳」、「合気道の普及 59~86歳」の3つの年代に分けて展示している。合気道体験映像では、基本となる「構え・歩方」、「座法」、「体さばき」の3つの体験コースがあり、それぞれ、「お手本を見る」⇒「実践」⇒「確認」のステップで体験できる。気・心・体サークルでは、「気」「心」「体」をそれぞれイメージした盛平翁の写真や肉筆の書をスクリーンに投影している。
合気道を創始した植芝盛平は、156センチという小柄ながら、柔道、剣術など多くの武道の修業と、出口王仁三郎大本教などの精神哲学を学んだ成果として、合気道を創始した。戦時中は、陸軍憲兵学校海軍大学校などで指導を行った。「山川草木、ひとつとして師とならざるものはない」。
交流のあった人物は、南方熊楠山本権兵衛嘉納治五郎野間清治大川周明正力松太郎大山倍達。出口王に三郎など、同時代の傑人が多い。門人には塩田剛三藤平光一などがいる。

塩田剛三(1915年生)は身長154cm、体重46kgと小柄な体格ながら「不世出の達人」と評され、「現代に生きる達人」「生ける伝説」とも謳われた、合気道の達人である。すでに講道館柔道の有段者であった18歳のときに、植芝盛平が営む植芝道場を見学に訪問。一瞬で飛ばされた塩田は「弟子にしてください」と即日入門した。この師弟関係は植木が亡くなるまで続いた。1961年には植芝から合気道九段(最高位)の免状をもらう。1983年には、国際武道院より範士号を、 1985年には国際武道院より合気道十段を、1988年には国際武道院より合気道名人位を授与された。「実戦では当身が七分で技(投げ)三分」というモットーを植芝の教えとして度々語っていた。「合気道の本質は、相手と自分の気を合わせ相手の攻撃を無力化することにある」は塩田の言葉である。

藤平光一1920年生)は幼いころから病弱であった。慶応義塾大学入学後、山岡鉄舟の高弟の小倉鉄樹から禅や呼吸法を学び体が強くなる。19歳から植芝盛平合気道を学ぶ。卒業後、中村天風に師事し心身統一法を学ぶ。1953年に渡米し、全米20州に合氣道を普及した。1971年、「氣の研究会」を組織し、1974年に心身統一合氣道会を立ち上げ、国内外に20万人を超える会員を擁した。「氣」の字の外側は天体をあらわし、中の「米」の部分は中心から八方に広がっている状態を指す。「氣」には天体のように八方に広がっていくという意味がある。「気」は自分の中に「氣」をためるために出口を締めるという意味だから、正しいのは「氣」だ。私は仙台時代に、友人の富田秀夫さんに紹介されて藤平光一の高弟に「氣」を学んだことがある。富田さんは現代医学の最高峰の学者が指導する「氣」の呼吸法の教室に長く通っている。先日、この医学者に紹介されて東京で会ったが、西洋医学では説明できない「氣」を解明したいと語っていた。「出ずる息は天地万世に及び、吸う息は腹内の寸分におさまる」は、藤平の言葉である。

2022年4月に、京都亀岡の大本教を訪問した時、近隣のNPO和良久の前田比良聖さんにあった。極真空手空手バカ一代大山倍達、kー1。、、40年前に大本の人との出会いがきっかけ。植芝盛平という合気道創始者と出会い、海外でも指導を行った人だ。「言霊の理論」を実践によって体系化、技化した人であり、佐々木小次郎の木剣を復元していた。

開祖・植芝盛平の創始した合気道は、現在では柔道、空手に次ぐ日本初の国際的武道として隆盛を誇っている。植芝盛平は、紫綬褒章、勲三等瑞宝章を受章している。